島郷
こしきじまごう
薩摩半島西方東シナ海上に位置し、上甑島・中甑島・下甑島の三島からなる。甑島郡のうちで、鹿児島藩外城の一。通常は上甑・下甑に二分して把握されたが、上甑島には里(現里村)、瀬上・桑之浦・小島・中野・中甑・江石(現上甑村)の七ヵ村、中甑島には平良村(現同上)、下甑島には藺牟田(現鹿島村)、長浜・青瀬・瀬々野浦・手打・片野浦(現下甑村)の六ヵ村があり、合計一四ヵ村が存在した。文禄四年(一五九五)中世以来の領主小川有季が阿多郡田布施郷(現金峰町)に移されて以後島津氏(鹿児島藩)の直轄領となり、代官曾木甚右衛門・酒勾兵右衛門が支配した(「三国名勝図会」など)。慶長一六年(一六一一)本田親政が当郷の初代地頭に任命された(諸郷地頭系図など)。当郷の地頭は実際に現地に赴任する移地頭(居地頭)であった。地頭館(地頭仮屋)は上甑島の里村(現里小学校)、中甑村(現中津小学校)、下甑島の手打村(現下甑村役場)の三ヵ所に置かれ、地頭はこの三ヵ所を順次巡回していた。大概記(列朝制度)には甑島移地頭一人・付役一人、地頭高一五〇石・付役高三〇石のほか、所(郷)から夫賃が出されており、「第一長崎之往還有之故、毎年唐船・阿蘭陀船等用心無油断警固之役也」とある。
島郷
こしきじまごう
「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが、郡名と同じであろう。「大日本地名辞書」「日本地理志料」はともに上甑と中甑にあたるとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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