川崎宿(読み)かわさきじゆく

日本歴史地名大系 「川崎宿」の解説

川崎宿
かわさきじゆく

東海道宿駅の一つ。多摩川右岸平地に位置し、品川しながわ宿(現東京都品川区)から二里半、神奈川宿(現横浜市神奈川区)から同じく二里半の距離にある。川崎は多摩川河口右岸一帯の汎称。弘長三年(一二六三)二月八日付勝福寺鐘銘(県史一)に「武州河崎荘内勝福寺」とみえ、宿内の曹洞宗宗三そうさん寺は勝福寺の後身と伝えられる(風土記稿)。付近は中世の堀之内ほりのうちを中心とする河崎かわさき庄に比定される。小田原衆所領役帳には間宮豊前守「六拾六貫九百七拾六文 江戸川崎」、鴇田新三郎「弐貫八百五拾文 六郷河崎内万秀院方」、大珠寺分「五貫文 川崎ニ伏」とみえる。

慶長六年(一六〇一)一月の東海道駅制の制定時にはなく、神奈川・品川両宿の伝馬継立が往復一〇里に及び伝馬百姓の負担が過重のため、軽減を図って元和九年(一六二三)に起立された。「川崎年代記録」によれば代官頭長谷川長綱により新宿しんしゆく砂子いさご二村を中心に多摩川沿いの久根崎くねさきと上手の小土呂こどろ二村を加えた四村を伝馬賦課村とする町立てが行われ、慶安三年(一六五〇)には関東郡代伊奈忠治により、低湿地の小土呂方面の生産力向上のため新川堀しんかわぼり用水が開削された。幕府は宿起立時、二〇〇両の伝馬持立金を貸与し、常備伝馬の保持を図ったが、伝馬百姓はしだいに増加する継立負担に耐えず退転逃散が続出し、問屋役まで身上潰れという状況になり、寛永九年(一六三二)一二月宿役人は幕府へ対し宿の廃止を愁訴するに至っている。これに対し幕府は翌一〇年継飛脚給米五〇俵の給付、同一四年には伝馬屋敷の地子免除を行い、島原の乱鎮定の賞として翌一五年に武士・武具を継立てた諸駅に馬一疋につき米五俵の手当を支給、寛文五年(一六六五)には問屋維持のため給米七石を給している。しかし一方では寛永一七年には常備伝馬が三六疋から一〇〇疋に引上げられており、宿の負担は軽減されなかった。同二一年宿検地を受けた。この時の検地帳は宝暦一一年(一七六一)四月の大火で焼失し伝存しない。また起立当初本陣がなく、砂子町妙遠みようおん寺があてられ、寛永五年新宿町に兵庫ひようご本陣が設けられ、その後砂子町に惣左衛門そうざえもん惣兵衛そうべえの二本陣が成立した。

元禄七年(一六九四)二月助郷改革による助郷村の編成により、当宿は定助郷八ヵ村(助郷高四千六一石)、大助郷三〇ヵ村(助郷高一万一千五七九石)となった(同年「川崎宿助郷帳」森文書)。この後享保一〇年(一七二五)一一月定助郷村の疲弊を救うため、定助・大助の区分を廃し、両者は平均に助郷を負うこととなった。


川崎宿
かわさきしゆく

[現在地名]川崎町前川

前川まえかわ村にあり、笹谷ささや街道の中心宿駅。笹谷峠を経て出羽国より柴田郡へ入った同街道は当宿で、小野おの碁石ごいし宿を経て仙台城下へ通じる道と、四方しほう峠を越え刈田かつた猿鼻さるはな宿(現蔵王町)を経て奥州街道みや宿(現同上)へ南下する道とに分岐した。また割山わりやま越で村田むらた宿(現村田町)へ出る道なども通っていた。西方野上のじよう宿へは一里八町余、東方小野宿へは三五町余、南の猿鼻宿へは二里六町。元和八年(一六二二)山形城主最上義俊の改易に際し、幕府の上使老中本多正純は川崎に宿泊したが、「貞山公治家記録」では「本多上野介殿ハ砂金ニ寓セラル」とあり、近世初期は一般に砂金いさごとも称せられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の川崎宿の言及

【川崎[市]】より

… 1590年(天正18)徳川氏の関東入国により,市域80ヵ村が検地によって成立したが,1611年(慶長16)には代官小泉次大夫が稲毛,川崎の二ヶ領用水を開削し,60ヵ村の水田地域の基礎を作った。また市域を横断して江戸に直結する中原・矢倉沢・津久井往還が発達したが,23年(元和9)には東海道の川崎宿が成立した。また大師河原村周辺に塩田が開かれた。…

【六郷渡】より

…江戸時代,東海道川崎宿(現,神奈川県川崎市)と八幡塚村(現,東京都大田区)を結んだ渡し。1688年(元禄1)多摩川の下流六郷川の木橋が洪水で流失したのち渡船(とせん)となる。…

※「川崎宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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