川棚村(読み)かわたなむら

日本歴史地名大系 「川棚村」の解説

川棚村
かわたなむら

[現在地名]豊浦町大字川棚

現豊浦町の中央に位置し、北は狗留孫くるそん山から海に延びる稜線によって宇賀うか村・小串こぐし村、東は豊浦山地の稜線で久野くの(現菊川町)内日うつい(現下関市)の両村、南は法事ほうじ川を隔て吉永よしながの諸村に接し、西はひびき灘に面する。狗留孫山を源とし、南へ流れる川棚川(流路延長一一キロ)が村の中央を流れ、この川の沖積平地で形成される平地の周辺部に集落がある。長府藩領で西豊浦郡奥支配に属する。

村域の南端磯上いそがみからは水晶石器、田島たしまの洪積層中から旧石器を検出しており、あつ島の東側から縄文土器片が出土し、さらに弥生前期から中期にかけてのなかはま遺跡をはじめ、水道山すいどうやま下岡しもおか・田島・西にしまえ井尻いじり湯町ゆまち原の上はらのうえ高野たかのなどの弥生遺跡、いちはま山田やまだ・高野・森の上もりのかみ後楽こうらく向山むかえやまなどの古墳が、平地と丘陵部が接する高度の地点に散在し、早くから生活が営まれていたことが知られる。

古代末から中世にかけては河棚庄とよばれ、京都嘉祥かしよう(跡地は現伏見区)の荘園で、中世後期には南北に分割されている。川棚南八幡宮に対し、応永四年(一三九七)に北八幡宮が創建されているから、おそらくこの時期に川棚川を境に南北に分割されたのであろう。村落の規模が拡大し、北八幡宮を中心に自然発生的に分割したと考えられる。川棚村の往古の隆盛を示す「地下上申」の記す村名の由来には、

<資料は省略されています>

とある。今も川棚川の河口近くの畑に銅滓包含地・鉄滓散布地がある。

中世末期から近世初期にかけても、河棚庄とよばれており、天文二二年(一五五三)六月一六日付の勝間田盛保に対する内藤興盛の宛行状(「閥閲録」所収)には「兼又於雲州尼子要害大手虎口、分捕高名神妙之至感悦候、其節雖令扶助少分之間、袷云恰、長州豊西郡河棚庄分領内百石足地并浦以下夫壱人等事所充行也」と記される。

川棚村
かわだなむら

[現在地名]都留市川棚

蛇行しながら北東流する桂川の左岸に位置し、対岸は上谷かみや村、南西を流れる桂川支流の柄杓流ひしやくながし川を挟んで十日市場とおかいちば村と接する。北方の天神てんじん峠を越えると薄原すすきはら村に至る。北東部にしろ山がそびえる。「甲斐国志」はカハタナと訓じ、「東南ヨリ望メバ棚ノ上ニ居ルガ如シ、故ニ川棚ト名ヲ得タリ」と村名の由来を記す。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名はみえず、同控に載る中津森なかつもり村に含まれ、寛文九年(一六六九)検地の時に公式に分村した(甲斐国志)。文化三年(一八〇六)の村明細帳(加々美四郎家文書)によると、田五石余・六反余、畑三七石余・一〇町三反余、ほかに高外の山畑があり、山畑年貢として大豆八斗余と稗五斗余を納めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報