十日市場村
とおかいちばむら
[現在地名]都留市十日市場・夏狩・桂町
上谷村の西に位置する。南と北はともに山々が連なり、南の鹿留村、北の平栗村・加畑村との境をなす。北の山裾を柄杓流川が東流し、南の山裾を流れる桂川と村の東端で合流する。この比較的平坦な両河川の間に耕地があり、同地をほぼ東西に走る富士道沿いに集落が形成されていた。村域の東端部に十日市場大堰の取水口がある。「甲斐国志」によれば、もと西の夏狩村と一村で、文禄三年(一五九四)の検地で分れたとあるが、夏狩村との間は飛地がとくに桂川沿いで入り交じり、その境界は錯綜していた。最終的な地番整理は昭和五九年(一九八四)に行われ、夏狩地内の十日市場の飛地は大字夏狩とされ、代わりに夏狩の飛地が十日市場へ編入された。そして桂町の通称を使用してきた両地番入り交じりの桂川沿いは大字桂町とされた。永禄一〇年(一五六七)一一月吉日の小山田信茂判物写(甲州古文書)によると、桃隠軒(かつての長生寺塔頭、小山田出羽守信有を供養するため建立)の茶湯料として長生寺に「十日市場弐貫文」など計五貫七〇〇文の地が寄進されている。
十日市場村
とおかいちばむら
[現在地名]緑区十日市場町・霧が丘一―六丁目・小山町・西八朔町・さつきが丘・しらとり台・いぶき野
東は榎下村と恩田川を境に小山村、南は榎下村・久保村、西は長津田村、北は長津田村・恩田村・西八朔村と接する。北部の川沿いには平地があるが、中央から南部は丘陵と谷戸からなる。平地をほぼ東西に走る道は、神奈川宿(現神奈川区)から榎下村を経て当村に入り、長津田村を経て八王子に至る。中南部には菜飯谷・銕谷・松原谷・ぞうが谷・狼窪という小名がみえる(風土記稿)。寛政一一年(一七九九)の字付反別案内(十日市場村誌)には、鉄谷・細谷・次郎右衛門谷・後谷・池ノ谷・馬屋久保・久保田・台田の字名がみえる。かつては荏下郷の一部で、慶長九年(一六〇四)に分郷されたと伝える(風土記稿)。
十日市場村
とおかいちばむら
[現在地名]若草町十日市場
寺部村の南西、御勅使川扇状地先端の平坦地に立地。南西境を滝沢川が南東流する。北は吉田村・十五所村(現櫛形町)、南西は江原村(現甲西町)。村域は東西六町・南北八町余(天明八年「村明細帳写」県立図書館蔵)。村名は、村内の真言宗安養寺の本尊地蔵菩薩の縁日にちなんで十日市が立ったことに由来するという(西郡地方誌)。十日市の起源はつまびらかではないが、「甲斐国志」に「府中ヘ三里、鰍沢ヘ一里半許リ、四達ノ邑ナリ」とあり、四方に交通路が開け、各筋の接点に近い立地条件にあったことが繁栄の要因と目される。
十日市場村
とおかいちむら
[現在地名]池田町大字会染 十日市場
現池田町南部で、北隣の現内鎌集落とともに高瀬川に近く位置し、同川のもたらした沖積平地にある水田地帯である。
十日市場の名の起りは、中世の市日にあることは言をまたない。十日市場村の名の初見は、文禄年間(一五九二―九六)の成立とみられている筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附の「四拾五石弐斗六升九合 十日市場村」であるが、この村名からすれば中世にさかのぼって呼称されていたものであるといえる。
十日市場村
とおかいちばむら
[現在地名]旭市ハ
太田村の南東に位置し、北部を銚子道が通る。天正一八年(一五九〇)の木曾義昌黒印状(千村文書)に十日市とあり、千村良重の知行となっている。慶長五年(一六〇〇)から幕府領で、同七年九月の海上郡十日市場村縄打水帳(写、加瀬家文書)では田二町七反余・畑屋敷七町七反余で、永荒田一一町余・同畑九町一反余。この検地で村高三五八石余が確定。慶安三年(一六五〇)から組与力給知(大番頭松平豊前守の組与力など)となり、万治四年(一六六一)までに四〇石余が増え、寛文一〇年(一六七〇)に再び幕府領となる。
十日市場村
とおかいちばむら
[現在地名]木更津市十日市場
井尻村の南西、小櫃川右岸に立地する。寛永三年(一六二六)の田畑屋敷高辻帳に村名がみえ、高一二四石余、田一町七反余・畑屋敷三町余、荒れのため有高六八石余。山役銭永五五〇文。正保国絵図では高一五三石、元禄郷帳では高一六九石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数四四、幕府領と与力給知。文化一二年(一八一五)の捉飼場村々書上帳では高一六七石余、幕府領と与力給知。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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