日本歴史地名大系 「戸出町」の解説
戸出町
といでまち
〔開発〕
中世末には
〔村高など〕
元和四年の新開検地状(川合家文書)では分米二四六石余、翌五年村高とは別に拝領屋敷高二八石余が認められ、寛永四年(一六二七)までの戸出新町の総高は二七六石余、免一ツ四歩で、蔵入地として代官西村右馬介が収納した(寛永九年「古高新開指上高物成帳」川合家文書)。正保郷帳では戸出新村と大かめ新村(狼村)が合せて記され、高三七三石余、田方一六町八反余・畑方八町余。村高の増加は新開によるものよりは、検地打出しによる場合が多く、寛永一一年には四五石が訴人地(隠田の一種で、訴えた者の耕地となった)として、慶安元年(一六四八)には一〇〇石が隠田高として加わり、承応二年(一六五三)の改作法直前の有高は四三一石余であった(戸出史料)。明暦二年(一六五六)の村御印留では戸出村として草高五四五石で、手上高七五石が含まれ、狼村は七三石で分村独立した。手上高七五石のうちには町屋敷高二八石余、前御旅屋高四石余が含まれていた。免は五ツ五歩となり、手上免が二ツ五歩余であるから、改作法は石高制による大増税とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報