戸出町(読み)といでまち

日本歴史地名大系 「戸出町」の解説

戸出町
といでまち

[現在地名]高岡市戸出町一―二丁目・同六丁目・戸出栄町といでさかえまち・戸出

現高岡市南部の在郷町で、庄川の西方約一キロに位置。北は市野瀬いちのせ村、南は光明寺こうみようじ村、東は大清水おおしみず村、西は中之宮なかのみや村・古戸出ふるといで村。古くは当地一帯を灯油田と称したともいわれ、開発当初は戸出新村・戸出新町とよばれた。行政上は郡奉行の支配下で、史料には戸出村ともみえる。中央を東西に北陸街道(巡見使道)が通る。南北には舟戸口ふなとぐち用水が流れ、その西側が城端じようはな道で、南は杉木新すぎのきしん(現砺波市)へ、北は高岡鴨島口かもじまぐちに通じる。舟戸口用水は戸出を出ると庄川の旧河道の一つ千保せんぼ川に合し、舟運にも利用された。

〔開発〕

中世末には般若野はんにやの庄北端の荒野であったが、元和三年(一六一七)下中条しもなかじよう(現砺波市)又右衛門が、戸出野開の御印状(高岡市立博物館蔵)を得て戸出野を開発、同時に当地は戸出新村として市立てが許された。同年の十村などに対する新開許可状は、新加賀藩主前田利常が前藩主利長に親しい初期十村層を自己の側に取込もうとして与えたもので、戸出野の実質的な新開はかなり進んでいた。翌四年の新開検地状(川合家文書)には「分米二四六石余、田畠共一六町四反余、灯油田之内新村又右衛門、此内作人伊勢領村沢介、伝介、二右衛門」とあり、翌五年の家高新帳では戸出又右衛門組に属して「灯油田」とみえ、役家数一六。戸出新村と灯油田之内新村は同一のものといえる。

〔村高など〕

元和四年の新開検地状(川合家文書)では分米二四六石余、翌五年村高とは別に拝領屋敷高二八石余が認められ、寛永四年(一六二七)までの戸出新町の総高は二七六石余、免一ツ四歩で、蔵入地として代官西村右馬介が収納した(寛永九年「古高新開指上高物成帳」川合家文書)正保郷帳では戸出新村と大かめ新村(狼村)が合せて記され、高三七三石余、田方一六町八反余・畑方八町余。村高の増加は新開によるものよりは、検地打出しによる場合が多く、寛永一一年には四五石が訴人地(隠田の一種で、訴えた者の耕地となった)として、慶安元年(一六四八)には一〇〇石が隠田高として加わり、承応二年(一六五三)改作法直前の有高は四三一石余であった(戸出史料)。明暦二年(一六五六)の村御印留では戸出村として草高五四五石で、手上高七五石が含まれ、狼村は七三石で分村独立した。手上高七五石のうちには町屋敷高二八石余、前御旅屋高四石余が含まれていた。免は五ツ五歩となり、手上免が二ツ五歩余であるから、改作法は石高制による大増税とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報