杉木新町
すぎのきしんまち
[現在地名]砺波市中央町・表町・本町・広上町
庄川扇状地の扇央部にあり、現砺波市の中心市街地にあたる。慶安二年(一六四九)一月、杉木村の二郎兵衛(のち杉木新町肝煎)はじめ太郎丸村・深江村・中神村・十年明村・北高木村の計一六名は連署して藩へ新たな町立てを願出た。この時の願書(杉木新町文書)によれば、杉木にはかつて市場町があったが慶長一三年(一六〇八)庄川が流入したため廃絶していた。この市場を再興するため太郎丸村内八〇石・深江村内一〇石・杉木村内一〇石の計一〇〇石を割いて居屋敷とし、長さ三〇〇間・横八〇間にわたり一〇〇軒の家がある町立てが計画された。この際一〇〇石の地は免三ツ七歩で請負い、定納口米三九石余・春秋両夫銀五一匁八歩、諸役代銀一〇枚を上納すること、町立て分一〇〇石の替地として太郎丸・深江・杉木・大辻・小杉の五ヵ村内の地を三年のうちに新開して差上げることを約している。この願いはすぐに許可され、三月には町筋分二万四千歩と往還道分一千五〇歩が打渡された(「御検地図帳」高畠家文書)。市日は願書どおり戸出町・中田町(現高岡市)と重複しない三・九の日の六斎市とされた(「市日定」同文書)。慶安三年には屋敷境縄張りについての申合せが行われているから、町屋は同二年から三年にかけて建設されたのであろう(「申合証文」同文書)。町通りの道は幅三間半・長さ三〇〇間で高岡・城端・井波、今石動(現小矢部市)へと通じていた(「道分替地願書」同文書)。町並は北東から南西へ走る城端道沿いに東町・中町・西町が並び、東町の北方に一番町・川原町・新町、中町の東方に南町、西町の南方に地蔵町が続いていた(弘化二年「杉木新町領絵図」砺波郷土資料館蔵など)。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一〇〇石・免五ツで、小物成は町役四三〇目・鮎川役六匁・鱒役五匁・油屋役八匁とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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