福野町
ふくのまち
面積:三一・七一平方キロ
東礪波郡の北端西部に位置し、北は小矢部市・砺波市、東は井波町、南は井口村、西は西礪波郡福光町。小矢部川と庄川によって形成された複合扇状地礪波平野のうちの南礪地方の中心で、小矢部川は蛇行しながら当町西部を北流する。同川右岸を支流の大井川・山田川、旅川(井波町域付近では西大谷川と呼称)の三川が流れ、当町北部で小矢部川に合流する。庄川の水を庄川町の合口ダムで取水した二万石用水は網の目のように放射状の用水路となって当町の東部・北部・中部地区を灌漑して小矢部川に落合う。なお旅川の名はかつて高瀬神(現井波町の高瀬神社)が高麗国から渡来した際、この川で足袋を洗ったことにちなむと伝える(越中志徴)。福野市街付近でJR城端線と国道四七一号が交差し、当町と小矢部市・砺波市の境界付近には北陸自動車道と東海北陸自動車道の小矢部砺波ジャンクションがあり、交通の便は良い。
縄文時代の遺跡は当町西部の安居丘陵(蟹谷丘陵南東端)に五百歩遺跡や興法寺遺跡・安居遺跡が、町内平野部には田尻遺跡や野尻遺跡・院林遺跡などがある。弥生時代の遺物は安居地区で採集されている。古代から近代にかけての当町域は礪波郡に所属し、「和名抄」にみえる同郡川上郷・高楊郷などを当町に比定する説もある。高野山真言宗安居寺は養老二年(七一八)インド僧善無畏三蔵の開基と伝え、聖武天皇の勅願所であったという。石武雄神社は元慶三年(八七九)従五位下に叙された石武雄神とみられ、野尻郷の総社として信仰されてきた。延喜一〇年(九一〇)一〇月の日付を含む越中国官倉納穀交替記(石山寺蔵)には利波臣一族の名が散見するが、安居寺の裏山には利波臣古墳と称する古墳がある。中世の当町域には山城醍醐寺遍智院領石黒庄院林郷や野尻庄(野尻保)などがあり、それらを名字の地とする武士が存在した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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