巻村(読み)くずまきむら

日本歴史地名大系 「巻村」の解説

巻村
くずまきむら

[現在地名]葛巻町葛巻

馬淵まべち川と山形やまがた川沿いに耕地が開け、内陸部と沿岸部を結ぶ交通の要衝で九戸郡南西端に位置し、東は九戸郡江刈えかり村と同郡山形村(現山形村)、南は岩手郡藪川やぶかわ(現玉山村)、西は岩手郡御堂みどう(現岩手町)、北は二戸郡平糠ひらぬか(現一戸町)、同郡田野たの村、同郡戸田とだ(現九戸郡九戸村)

建武二年(一三三五)九月六日の南部又次郎(師行)宛北畠顕家御教書(盛岡南部文書)に「葛巻村」とみえる。当村は彦三郎(横溝祐貞)に与えられたが、横溝孫六重頼がこの土地はもと横溝六郎三郎入道(浄円)の所領「中里村」であり、没収されて伊達彦五郎(善恵か)に与えられたが、同氏が辞退したため重頼に与えられ、奉行人がこれを忘れて誤って彦三郎に与えてしまったものであると訴えた。陸奥国衙では彦三郎の提出した文書には「葛巻村」、重頼の訴状には「中里村」とみえる村名の食違いを疑問としながらも重頼の訴えに基づき、彦三郎には替地を与えることとし、南部師行に引渡しを命じている。しかし、同年二月二一日に横溝彦三郎が下文のとおりに引渡しをうけたのは「糠部郡南門内横溝弥五郎入道跡」で(「北畠顕家国宣」遠野南部文書)、村名の記載がないので確証はないが、両村はまったく別の村と考えられる。


巻村
かずらまきむら

[現在地名]蒲生町葛巻

宮井みやい村の北西、日野川左岸の平地に位置し、北西は同川支流法教寺ほうきようじ川を境に川守かわもり村・岩井いわい(現竜王町)、西は山之上やまのうえ(現同上)。集落の東側を日野町へ通じる道が走る。日野川対岸、横山よこやま上南かみな村境で佐久良さくら川が同川に合流するため、度々氾濫に見舞われ、近代以降になっても集落は幾度か浸水を被った。そのため日野川には水害防止のため霞堤が築かれた。弘安(一二七八―八八)頃と思われる散位成宣奉書(山部神社文書)に「葛巻」とみえ、当地の入方衆が市子いちこ本庄の殿原とのばら井に関して狼藉を働いている。


巻村
まきむら

[現在地名]巻町巻

西にし川右岸の自然堤防上の村落。北方ははかや村、南方は赤鏥あかさび村に接し、東方はかつてのよろい潟に近接していた。巻町一二区の県道の交差点(館之城)を東に、郭内が東西一〇〇メートル余・南北八〇メートル余、その周囲に幅一二メートルの堀がめぐる単郭の館跡があり、巻を開発したと伝えられる西山庄左衛門が天正年間(一五七三―九二)在城したといわれる。天正一二年四月一六日、三条城守将甘糟長重が上杉景勝に新発田合戦における下越の状況を報じているなかに、「真木之地」とみえる(「甘糟長重書状」歴代古案)。慶長五年(一六〇〇)の巻村検地帳(村名部分が欠損しているが巻村検地帳と断定される。巻町教育委員会保管文書)の末尾部分に都合二〇一石八斗八升四合とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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