市木村(読み)いちきむら

日本歴史地名大系 「市木村」の解説

市木村
いちきむら

[現在地名]串間市市木

現串間市の北東部、高畑たかはた山・黒泥田くろにた山の北に位置し、集落は山裾と市木川下流の平野部に形成されている。東は日向灘に面し、地先の海にこう島・とり島およびつき島が浮ぶ。中世には市来とも記した。往還は、当村石原から権代ごんだい山を経て南西本城ほんじよう辺保へほ口広くちひろ本城に出るものと、当村八ッ谷を出て、南の大納おおのう滝山たきさん越を経、同村に至る二つがあった。永正一七年(一五二〇)日向に着いた幕府遣明使瑞佐は、市木の龍源りゆうげん寺で住持と詩を作りながら一夜の旧交を温めている(日下一木集)。天文九年(一五四〇)二月一八日、新納忠勝は福島ふくしま院市来の水田五段を龍源寺の鄂渚に寄進している(「新納忠勝寄進状」旧記雑録)

江戸時代には村の大部分市木川南いちきかわみなみ郷に属し、残余海北うなきた村・六郎坊ろくろぼう村とともに市木川北いちきかわきた郷に所属。両郷の庄屋(寛文七年以前の称は催司)は当村に居住し、寛永一五年(一六三八)福島催司の市木の杢兵衛・主水の両名にそれぞれ知行五石が与えられた(高鍋藩人給帳)。日向国覚書によると高一千五八九石余。寛文四年(一六六四)高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)でも同高。


市木村
いちぎむら

[現在地名]瑞穂町市木、那賀郡あさひ町市木

上田所かみたどころ村の西、八戸やと川上流域および同川支流生家おぶか川流域の山間の村。南東境の三坂みさか峠越で安芸国新庄しんじよう(現広島県大朝町)に至る道が通る。南境に猪子いのこ(八三〇・二メートル)阿佐あさ(一二一八・二メートル)、中央に丸瀬まるせ(九八六・五メートル)などの高山が連なる。これらの山から流れ出る猪子谷いのこだに川・聖岩谷ひじりいわだに川などの小支流を合せる八戸川流域に猪子山いのこやま観音寺原かんのんじばらまち大野おおの麦尾むぎお宮中みやなか中郡なかごおり早水はやみうちはら貝崎かいさき越木こしき平松ひらまつ宮野地みやのじ大石谷おおいしだに(現旭町)の集落がある。


市木村
いちぎむら

[現在地名]豊田市市木町

市木川の南岸にあり、矢作川とくらヶ池の中間地点にある。市木川の沖積地に形成された村で、先土器時代の八耳田やんだ遺跡、縄文時代の沖田おきた遺跡、弥生時代中期の堂貝戸どうがいと遺跡・駿河するが遺跡のほかに、六部塚りくぶづか古墳、四反田よんたんだ遺跡・四反田南遺跡、北山きたやま第一・第二号墳(滅失)がある。文久二年(一八六二)の村絵図によると、村の中央を東西に岩滝川が横切り、南端には上池・下池二つの溜池がみえる。神明社・天王社・観音堂・寸尺社・八王子・山神・浄泉寺が散在している。

天文年間(一五三二―五五)は鈴木日向守重教が知行し、慶長一八年(一六一三)から尾張藩寺部渡辺氏領となり明治に至る。


市木村
いちぎむら

[現在地名]旭町市木、邑智郡瑞穂みずほ町市木

八戸やと川に沿い、西は都川つかわ村、南は安芸国大塚おおつか(現広島県大朝町)石見安芸道が通り、三坂みさか峠を経て安芸国に至るが、石見側は急坂の難路であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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