日本歴史地名大系 「布施山開」の解説 布施山開ふせやまびらき 富山県:黒部市布施山開黒部川扇状地と布施川扇状地に挟まれた現黒部市から下新川郡宇奈月(うなづき)町にかけての一帯は、標高一〇〇―三〇〇メートルの台地で、地味が肥えていることは知られていたが、水の便が悪く放置されてきた。しかし天保飢饉後の農村回復をめざす加賀藩は、大火で疲弊した生地(いくじ)村など難渋の村の救済、土地が不足している村や人口過剰の村からの入植者移住のため、この地の開発にとりかかった。布施山開は宮野(みやの)開・十二貫野(じゆうにかんの)開と付属開である鶏山(けいざん)開・立岩(たていわ)開・中黒(なかぐろ)開・桃原(ももはら)開(現宇奈月町)を合せ、弘化三年(一八四六)藩により命名されたもので、泊(とまり)町(現朝日町)与三左衛門が布施山開裁許を命ぜられた(「布施山開濫觴一件」杉木家文書)。文化一三年(一八一六)三月新川(にいかわ)郡滑川(なめりかわ)の善六と新川郡新田裁許の石川郡長田(ながた)村(現金沢市)の次郎兵衛が(「十村・新田裁許名列覚」高樹文庫)、十村の山田(やまだ)村祐三郎に吉城寺(きちじようじ)野続きの字十二貫野の末端田家野(たいえの)までの新開を願出た(「御触留帳」伊東家文書)。その内容は、黒部川上流の内山(うちやま)村(現宇奈月町)字馬寄場(うまよせば)で分銅(ふんど)谷上手の黒部川から直接水を取入れ、愛本(あいもと)大橋の付近を通り、下立(おりたて)村・浦山(うらやま)村・栃屋(とちや)村(現同上)などの山地の斜面を掘回し、田家野まで約二四キロの用水路を通し、途中の谷には懸樋を設けるというものであった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by