長田村
ながたむら
[現在地名]長田区長田町一―九丁目・宮川町一―九丁目・西山町一―四丁目・大塚町一―九丁目・一番町一―五丁目・二番町一―四丁目・三番町一―五丁目・四番町一―八丁目・五番町一―八丁目・六番町一―八丁目・七番町・片山町一―五丁目・寺池町一―三丁目・前原町一―二丁目・重池町一―二丁目・房王寺町一―七丁目・大丸町一―三丁目・名倉町一―五丁目・長田天神町一―七丁目・明泉寺町一―三丁目・堀切町・林山町・長者町・高東町一―三丁目・花山町一―二丁目・丸山町一―四丁目・東丸山町・西丸山町一―三丁目・桧川町一―三丁目・滝谷町一―三丁目・源平町・鶯町一―四丁目・大日丘町一―三丁目・雲雀ヶ丘一―三丁目・萩乃町一―三丁目・鹿松町一―三丁目・一里山町・蓮宮通一丁目・御船通一丁目・大道通一丁目
六甲山地西部に発して南流する苅藻川の中・上流域を占める。「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に事代主尊を祀ったとある「長田国」の長田神社鎮座地で、「和名抄」八部郡に長田郷がみえる。ちなみに坂上系図に引く「新撰姓氏録」に、阿智王(阿知使主)と同郷の漢人らの後裔として長田村主をあげる。長田神社北東にある台地上には白鳳期・奈良期の瓦が出土した房王寺廃寺があり、寺院遺構は検出されていないが、天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺文書)にみえる凡河内寺にあてる説(兵庫県史)もある。
長田村
ながたむら
[現在地名]甘木市長田
林田村・八重津村の南、佐田川下流左岸の平野部に位置する。下座郡に属し、東は上畑村・中村、南西は筑後国竹野郡床島村(現大刀洗町)、南は西流する筑後川(千年川・千歳川)を隔てて同郡恵利村(現田主丸町)など。また筑後川の北側を桂川(古川)が西に流れ、当地で筑後川に注いでいた。江戸時代を通じて福岡藩領。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に「長田中村」とみえる。小早川時代の指出前之帳では長田村は中村・城力村を含み、田一四町余(分米一五〇石余)・畠二〇町余(分大豆一〇七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千九〇石余、うち大豆四五七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千二六六石余・反別九六町四反余、家数八八・社一・寺一、人数四四三(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も一千二六六石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一二九・人数六一〇、馬五〇(別本「続風土記附録」)。庄屋は当初は平右衛門が勤め(慶長一三年から)、一八世紀には鹿毛家、その後は松岡家などが勤めた(村誌ひなしろ)。
正徳二年(一七一二)久留米藩は床島村を流れる筑後川に石井手(床島堰)を造成し(竣工は同三年)、新川を掘って筑後国御井郡・御原郡に新田一千五〇〇余町を開いた。
長田村
おさだむら
[現在地名]福知山市字長田・
長田野町・
大池坂町・
中坂町・
東平野町・
南平野町・北平野町・西平野町
由良川の支流土師川の右岸に位置し、村の北部約三分の二は長田野が占める。東は多保市村、南は土師川を隔てて岩間村、西は堀村・土師村に接し、北は長田野の北縁部まで広がり、西から前田村・土村・石原村と境する。
村の南方和田賀からチャート製の鋭い石鏃が五個以上と石鎗が出土している。また長田野の北縁には東西にわたり古墳群が並ぶが、その東部については「丹波志」に「長田村ノ内ニ青塚ノ平ト云所ニ石塚三ツ有、内壱ツハ平ニ在、二ツハ石原村村境ヨリ長田村分ニ在」とある。長田村分ではないが、前田の宝蔵山古墳群・八ヶ谷古墳、土の大池坂古墳・中塚古墳、石原の仏山古墳があり、長田村分にも上野平古墳などがあって、五世紀から七世紀にわたる古墳群である。
長田の名は古く、「新古今集」(巻七)賀歌に次のようにみえる。
<資料は省略されています>
丹波国は古くより大嘗会の主基田に卜定されることがあったが、長田の田がその一つであったと推察される。
長田村
ながたむら
[現在地名]向原町長田
保垣村の西北、三篠川沿いに位置し、西南は井原村(現広島市安佐北区)に接する。「芸藩通志」に「広さ三十町余、袤三町、南北は山連り、東西は長く田疇なり、村名も地形によりてよぶなるべし、一川坂村より来り、村中を通じ、西の方井原村に入る」とある。
「和名抄」所載の高田郡風速郷に含まれる地で、大治二年(一一二七)三月日付の安芸国高田郡風早郷田畠等立券文(新出厳島文書)に「長田村」とみえ、三〇余の名と段数および「本垣村」を含む長田村の桑の本数が一千五〇五本と記される。風早郷内の他の村々と同じく平安時代末期には厳島社領となり、建保四年(一二一六)にはその神主職で鎌倉御家人ともなっていた佐伯(内藤)為弘が地頭職を得、以後この一族によって地頭職が伝領される(「閥閲録」所収内藤次郎左衛門家文書)。厳島神社領としては中世後期にまで存続し、応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島文書)にも「諸免田等」の一つに「長田郷」が記される。
長田村
ながたむら
[現在地名]大山町長田
野田原村の南東、孝霊山北西麓の傾斜地にあり、階段状に耕地が開かれている。建武三年(一三三六)七月の出雲国造舎弟貞教軍忠状(出雲千家文書)に「長田城」とみえ、同年六月一九日塩冶高貞方に属した出雲国造らの軍の攻撃を受けている。長田城は当地にあったとされるが、会見郡内の現西伯町に比定する説もある。また「舟上記」に名和庄(現名和町)に移る前の名和氏一族の本拠地として記される「伯耆長田」を当地にあてる考え方もあり、名和長年の祖父・曾祖父の墓と伝える五輪塔二基が長田神社境内に残る。藩政期の拝領高は三六三石余、本免は二ツ五分。米子組士の柘植(牧野)氏・柴山氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」の高四一〇石余、竈数三〇余、天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)では家数四八。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四二九石余、竈数四五。
長田村
ながたむら
[現在地名]美東町大字長田
綾木村の南にあり、鳳翩山塊に発し厚東川に注ぐ長田川の上・中流域を占める。東は吉敷郡吉敷村(現山口市)と同上中郷(現小郡町)、南は真名村と接する。村の北を東西に肥中街道が通り、東に江嶺山がそびえる。
中世末期には長田郷とよばれ、大永五年(一五二五)五月五日付の万勝山正現寺文書(「閥閲録」所収)に「長門国美祢郡長田郷万勝寺住持職之事、所令裁許也者、早守先例、云寺家云寺領、執務領掌不可有相違之状如件」とみえ、大内義興が現在の正現寺の前身と伝える万勝寺の住持職を禅薫に裁許したとある。
永禄一一年(一五六八)九月二三日付の香山常栄寺文書(「寺社証文」所収)によれば京の聖護院門跡の道増・道澄が長田郷の永光名五〇石を、毛利隆元の追善のため霊光院に永代寄進したという。
長田村
ながたむら
[現在地名]東大阪市長田〈中一―五丁目・内介・西一―六丁目・東一―五丁目〉・長田
若江郡に属し、標高三・七五―五メートルの平坦地で北は稲田村。大和川付替えまでは村の西を楠根川が流れていた。明治二〇年(一八八七)前後の仮製地形図では「長」に「ヲサ」とよみを付す。「新撰姓氏録」(河内国未定雑姓)の「長田使主 百済国人為君主之後也」は、当地に関係ある人物と伝える。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)四月一九日条に、神宮使が各地の地頭の造太神宮役夫工米未進を訴えた記事があり、河内国の未進のうちに「長田」がみえる。本願寺証如の「天文日記」天文一一年(一五四二)五月四日条に「斎を河内長田教法為志調備之」とある「長田」も当地と考えられる。
慶長一七年(一六一二)の村高は八〇一石余、寛永五年(一六二八)高西夕雲により一一七石余が無地増高された。同一九年には村が大方と小方に分けられた(布施市史)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一千二四三石余で、八四八石余が幕府領、三九四石余が山城淀藩領。
長田村
ながたむら
[現在地名]上野市長田
東村の南。東を長田川(木津川)が北流し、北端で服部川を合して西に向かう。合流付近の落合下流の恵比須ヶ淵には幅七―八間の岩が横たわり、岩枕中央の銚子ヶ口の狭間を河水がせき流れ、「景気えもいはれず」(茅栗草子)といわれた景勝の地であった。長田川左岸に耕地が開け、段丘面には長地形・短冊形の条里遺構が南北線西傾約一一度で残る。中央部の寺垣内は弥生期より平安期の遺物包含地帯でサヌカイト片・布目瓦を出土する。西部は約二八〇―三一〇メートルの山地になり、木垣内・比自山一帯に古墳群がある。式内社木根神社のほか、中世には観音寺・仏性寺・常住寺・西蓮寺が建てられた。
長田村
おさだむら
[現在地名]伊予三島市豊岡町長田
現伊予三島市の西北端、嶺北の海岸沿いに位置し、東は豊田村、南は五郎野村・岡銅村、西は野田村(現宇摩郡土居町)に接し、北は燧灘に面する。東西約九町、南北約八町半の農村。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「高三百四拾九石四升三合 長田村」とある。
「和名抄」にみえる宇摩郡津根郷に属したとされる。江戸時代には諸領主時代を経て、津根一柳氏知行地、さらに宝永元年(一七〇四)西条藩領となって幕末に至る。初め土居組に属し、宝永六年に中之庄組、享保一一年(一七二六)より東寒川組に属す。元禄一〇年(一六九七)の伊予国宇摩郡瓜尻村丁丑歳宗門人別改帳(河村家文書)に「是ハ一柳権之丞様御知行所当郡長田村九左衛門」とあり一柳氏所領を裏付ける。
長田村
ながたむら
[現在地名]金沢市長田本町・長田一―二丁目・駅西本町一―三丁目・広岡二丁目・西念一丁目・元菊町
西念新保村の南に位置する。東は金沢城下・北広岡村など。同城下と外港宮腰を結ぶ宮腰往来の村方出入口にあたる。天文六年(一五三七)一〇月一三日、妙光寺(現京都市右京区)は「豊田領家長田村東西桜田」領家職の保証を本願寺に求め、同月一五日、証如は申付けを行っている(→桜田村)。正保郷帳では二口村・長田村と記され、両村合せて高一千七石余、田方六三町余・畑方四町余、ほかに新田高四七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高五五九石・免六ツ二歩で、小物成として鳥役三匁が賦課されたが、鷹場となり免除されていた(三箇国高物成帳)。
長田村
ながたむら
[現在地名]上屋久町永田
吉田村の南西にあり、南は国割岳を隔てて栗生村(現屋久町)、西と北は海に面する。永田とも書いた。文禄検地では本村として扱われている(三国名勝図会)。ただし付属する小村はなかった。その後、近世初期には本村であった吉田村が当村の小村となった(薩藩政要録)。村内の西部脇元地区は開拓されて人口が増えると、天保一一年(一八四〇)の田畠収納帳(日本林制史資料)に「脇元村」とあるように村とよばれるようになったが、正式に一村とは認められなかった。
長田村
ながたむら
[現在地名]世羅西町長田
下津田村の東に位置し、村の北部を津田川(現馬洗川)が東流、流域の低地と、南の山中に二つの小盆地をもつ農村。村内に篠村(現賀茂郡大和町)と中村の飛郷がある。南端に標高五五三メートルの波多古屋(波他古也)山がある。当村はかつて大田庄山中郷のうち横坂郷に属した。建久元年(一一九〇)六月日付の僧鑁阿置文(高野山文書)に「横坂ノ福田長田」と地名がみえる。
元和五年(一六一九)の備後国知行帳には「長田下村」とある。「世羅郡誌」によると、文政三年(一八二〇)には実畝五七町八反三畝一二歩のうち田四三町三反四畝一二歩・畠一四町一反・宅地三反九畝で、本途物成は一五五石九斗八升六合、万延元年(一八六〇)には
高四一石三升一合、村高のうち二四石余が明知で、他は六人の給知。
長田村
ながたむら
[現在地名]成田市長田
堀之内村の西方に位置。南を取香川が西流する。文禄三年(一五九四)の検地帳(長田区有文書)に香取郡大須賀庄長田村とある。近世前期は佐倉藩領で(「寛文朱印留」など)、元禄一一年(一六九八)旗本日根野領と南町・北町両奉行所与力給知となる(同一三年頃の下総国各村級分など)。ただし享保一六年(一七三一)の検地によって高請された切添新田は幕府領。元禄郷帳では高二八四石余。幕末における相給の内訳は日根野領一一四石余・南町奉行所与力給知一〇二石余・北町奉行所与力給知六六石余・幕府領一二石余(平山家文書)。
長田村
おさだむら
[現在地名]近江八幡市長田町
杉森村の北東に位置し、北側から東側にかけては香之庄村(現蒲生郡安土町)など。北部を朝鮮人街道が通る。慶長三年(一五九八)に当村南の野田村とともに京極高次の室常高院(淀君の妹、常光院とも)栄昌尼の化粧料地となる。寛永一一年(一六三四)栄昌尼が没し、当村のうち高一一〇石、同一五年には同じく高一九〇石の計三〇〇石が若狭国小浜村(現福井県小浜市)の栄昌尼菩提寺常高寺に朱印地として与えられ、残余は讃岐丸亀藩京極氏領(高八九一石余)と菊亭家今出川領(高三〇〇石)となり、三者の相給で幕末に至った。
長田村
ながたむら
[現在地名]三良坂町長田
三谿郡の南にそびえる郡内最高の岡田山の西麓より北流する長田川沿いに、南北およそ四キロ・東西数百メートルの細長い谷を村域とした村で、北は三良坂・岡田の両村。元和五年(一六一九)の備後国知行帳による村高は四六九・三三七石で以後大きな変化はない。「芸藩通志」は田畝五二町一段余、戸数八七・人口三八七、牛七五・馬一七を記す。安政五年(一八五八)の免割帳(冨田家史料)によると、村高の八七パーセントにあたる四一〇石余が藩士五名の入会給知で、明知は新開五斗を加えて五九石余。
長田村
ながたむら
[現在地名]真岡市長田・松山町
鬼怒川左岸の台地上平坦地に位置する。西は大沼村・上大沼村。真岡町から石橋宿への道に沿い、南北の脇街道も交差し、荷継場で問屋もあった。慶長六年(一六〇一)幕府領、のち宇都宮藩領。慶安郷帳によると、田高三三九石余・畑高一八七石余。貞享二年(一六八五)幕府領・宇都宮藩領の相給。元禄四年(一六九一)各領の検地が行われ、幕府領分の反別四七町一反余・高四四五石余、宇都宮藩領分の反別二三町一反余・高二七四石余(「検地帳」上野勇吉文書)。元禄郷帳では宇都宮藩領で、その後旗本野村と烏山藩の二給。旧高旧領取調帳では野村領四六五石余・烏山藩領二六七石余・幕府領一九石余とある。天保年中(一八三〇―四四)の家数二〇(改革組合村)。
長田村
ながたむら
[現在地名]矢部町長田
東は下馬尾村、北は蘆屋田村に接する。白小野川が流れ、日向往還が通る。永田とも書く。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「なかた」とみえ、貫高は二〇貫。応仁(一四六七―六九)頃には男成宮に神人銭一〇〇文を献じている(「男成宮社頭注文」男成文書)。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から中島手永に属し、のち旧に復した。
長田村
ながたむら
[現在地名]緑町倭文長田
宮村の西、西流する倭文川支流長田川流域にある。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文には、三原郡の国領のうちに長田村がみえる。田三町一反三四〇歩(うち除田一丁一反一二〇歩、残田は二丁二二〇歩)・畠四反二〇〇歩で構成される。地頭は船越右衛門尉。永正一八年(一五二一)六月四日、淡路屋与三二郎光之から中嶋北殿に質入れされた伊勢道者株のうちに「長田の三郎大夫殿」が含まれていた(「道者売券」来田文書)。大永四年(一五二四)一二月二四日、淡路屋与三次郎光重から売渡された伊勢道者株のうちに「なかた」一円があった(「道者売券」同文書)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録には長田村は二〇六石とあり、羽柴秀吉の蔵入地となっていた。
長田村
おさたむら
[現在地名]尾上町長田
田圃を隔てて北東に中佐渡村、南西に杉館村(現平賀町)がある。
相打村(現北津軽郡市浦村)三和五郎兵衛所蔵の郷村牒に、寛文四年(一六六四)以後の新田として高六二四・五石とあるという(津軽平野開拓史)。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて三八町九反六畝二六歩、村高二四八・七四六石とある。うち田方は二五町八反五畝一歩、二〇六・一二二石、上田から下々田まで設定され、下田が一三町五反五畝三歩、九四・八五七石であり、畑方は一三町一反一畝二五歩、四二・六二四石、上畑から下々畑までで、下畑が八町八反六畝二一歩、二六・六〇一石、そのほかに一畝歩の郷蔵屋敷がある。
長田村
ながたむら
[現在地名]加古川市尾上町長田
今福村の南東に位置する。慶長国絵図に村名がみえ、その西に「大崎」が記される。正保郷帳によれば田方三七五石余・畑方二八石余、ほかに尾上大明神社(現尾上神社)領高七石余。尾上神社には銅鐘があり「高砂の尾上の鐘」として有名で(播磨鑑)、高麗顕宗二年(一〇一一)に比定される銘をもつ天倫寺(現島根県松江市)の朝鮮鐘と同笵といわれている。国指定重要文化財。浄土宗西山禅林寺派長田寺は承応二年(一六五三)開創とされる(加古郡誌)。
長田村
ながたむら
[現在地名]志賀町長田
直海村の北にある山村。五里峠山塊の小支谷に集落を形成。元和六年(一六二〇)の検地高一三四石(「六拾四ヶ村明細記」安成寺文書)。正保郷帳では田原村と合せて高付。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高一三八石、免四ツ、小物成は山役三八匁、鳥役一匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。
長田村
ながたむら
[現在地名]岡山市高松田中
田中村の北に位置する。東寄りを血吸川が南流し、右岸に集落がある。古くは田中村に含まれていたと思われる。足守藩の貞享二年(一六八五)の賀陽郡・上房郡寺社改帳(総社市史編さん室蔵)に長田村・松ヶ鼻村を併記するかたちで村名がみえ、合計の高二九三石余、家数二八・人数一〇七と記す。
長田村
ながたむら
[現在地名]竹田市太田
篠尾村から倉木村に至る道に沿い、北は牧村。正保郷帳では倉木郷に属し、田方七八石余・畑方五四石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では太田組のうち、村位は中、免八ツ八分、田八六石余(七町七反余)・畑八八石余(一三町九反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田はほとんどなく、開畑二斗余(三反余)がある。
長田村
ながたむら
[現在地名]吉備町長田
角村の西、有田川南岸に位置する。慶長検地高目録によれば村高三一五石余、小物成二升九合。田殿組に属し、「続風土記」は家数六一、人数三一九、社寺として国主明神社、地蔵堂・浄教寺を記す。明治八年(一八七五)の村誌(和歌山県立図書館蔵)によれば戸数七八(うち寺一)、人数四〇六(男二一八・女一八八)、牝牛二五、川舟二艘(一〇石積)。
長田村
ながたむら
[現在地名]八代市長田町
下片野川村の西に隣接した平坦地に立地する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方三九四石七斗余・畠方六九石八斗余。高田手永に属し、「国誌」は小村として石原・白石・畑中などをあげる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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