帯屋町(読み)おびやまち

日本歴史地名大系 「帯屋町」の解説

帯屋町
おびやまち

[現在地名]高知市帯屋町一―二丁目・ほん町三―五丁目

追手筋おうてすじの南側、東西九町三三間の町で(南路志)、町の西部北側は高知城城郭南側の内堀に沿う。東端は郭外しも町との境、西端は同じくかみ町との境の外堀で、郭中かちゆうで最も長い町である。

当地には城下町形成後もしばらく町屋があり、豪商帯屋勘助なる者がいたので町名となったという。帯屋町に大商人がいたことは、元和五年(一六一九)五月二八日、藩主後見人の山内修理が「おひや町 佐兵衛」から「丁銀五百目」を借用、その借用書を出していることにうかがわれる(山内家文書)。また正保二年(一六四五)の帯屋町の指出(土佐郷土志料)によれば、表口間数五―八間の町屋が八軒、五―五・九間が四軒、四―四・九間が五軒、三―三・九間が九軒ある。


帯屋町
おびやちよう

中京区高倉通錦小路下ル

南北に通る高倉たかくら(旧高倉小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では、左京四条四坊二保四町東及び同五町西。

平安時代の末、この地に藤原惟方の邸があった。「兵範記」久寿三年(一一五六)三月三日条に「今夜東宮行啓四条高倉惟方家、日来御于鳥羽田中殿、」とある。「材木屋在所」(祇園社記)には「(四条)たかくらの 衛内太郎殿」とあり、室町中期、付近に祇園社材木座商人が住んでいた。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「おひや丁」とあり、以後変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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