幡屋村(読み)はたやむら

日本歴史地名大系 「幡屋村」の解説

幡屋村
はたやむら

[現在地名]松島町幡谷はたや

根廻ねまわり村の北に位置し、北には品井しない沼が広がる。品井沼は鳴瀬なるせ川の自然堤防に吉田よしだ川が流入して作った湖沼で、宮城・黒川・志田三郡にまたがる大沼であった。元禄六年(一六九三)鍬立(起工式)が行われ、以後五年間にわたって干拓が進められたが、明治前期にはなお東西一里一五町、南北一里一二町、周囲五里二〇町の規模を有した(宮城郡地誌)。こうした地理的条件にあったため、字永根ながねから貝塚が発見されており、縄文前・中期の土器が出土した。それに近い蝦穴えぞあなには蝦穴古墳群がある。

幡屋は地方文書に幡谷・畑谷・旗谷などとも記され(近代の村名は幡谷)中世には竹城たかき保に属し波多谷はたや村とよばれた。

幡屋村
はたやむら

[現在地名]大東町幡屋

仁和寺にんなじ村の北、あか川の支流幡屋川上・中流域に位置する。北は上来海かみぎまち(現宍道町)、西は白石はくいし(現同上)砂子原すなごはら(現加茂町)。「出雲国風土記」大原郡条に「源は郡家の東北なる幡箭山より出でて南に流る。魚なし」と記される幡屋小川は現在の幡屋川のこととされ、幡箭はたや山は郡境にある丸倉まるくら(三七〇メートル)に比定される。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳によると高六九一石余、寛文四年(一六六四)には本田高六七一石余・新田高一石余。「雲陽大数録」では高五五〇石。「郡村誌」によると戸数一二二(うち社一・寺一)・人数四八五、民業は農業一〇五戸・工業一一戸・雑業三戸、物産は人参一三〇斤・茶五〇斤・薪二千六〇〇貫目・木綿二〇〇反。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報