平坂村
へいさかむら
市の西端に位置し、矢作川の左岸にある。碧海台地上と、これに続く緩斜面、その西に広がる盛土地に集落がある。北は中畑村、東は羽塚村、南は西小梛新田、西は矢作川をもって平七新田(現碧南市)と境する。往古は入海に面した村であったが、矢作川の改修により川沿いの村となる。台地の部分と近世に開けた新田地帯からなる。
村名の由来については「本村、古時、経師浦ノ称用フ。弘治元年頃ヨリ改メテ平坂ト云フ」(平坂村誌)、「浄徳寺初メ今ノ平坂ニ在リ。其ノ頃、平坂ヲ経師之郷ト唱フ由」(郷村雑書)といい、経師・平坂の地名が古くからあったことが知れる。天文九年(一五四〇)の文書には「吉良庄実相寺之内、平坂山並ニ御畠山三反経師野三反無量寺建立の為」(無量寿寺文書)とある。平坂は多くは「ひらさか」と読む。いつの世からか「へいさか」となる。
潮の干満により年々土砂が堆積、平坂湊の西に新田が造られ、近世に開けた新田に、市川新田・新美新田、舟入新田がある。
平坂村
ひらさかむら
[現在地名]五個荘町平阪
木流村の南、箕作山東麓にあり、西は山本村、南は伊野部村。永正元年(一五〇四)の小幡商人と保内商人の塩売買をめぐる争いの際、小幡側の足子商人として報告された者のなかに、小脇塩商人寄子の「平坂之孫四郎」の名がみえる(同年一二月一七日「建部胤泰書状」今堀日吉神社文書)。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)に建部と注記して村名がみえ、高三〇九石余、慶長高辻帳には二九七石余、うち三斗が小物成とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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