平盛俊(読み)たいらのもりとし

朝日日本歴史人物事典 「平盛俊」の解説

平盛俊

没年:元暦1.2.7(1184.3.20)
生年:生年不詳
平安末期の武士。盛国の子。父と共に平氏の有力な家来清盛の側近。越中守。『尊卑分脈』には盛国の子は「盛康」と書かれているが,あるいは同一人物か。保元平治の乱に参加し,養和1(1181)年の墨俣川の戦や寿永2(1183)年の北陸合戦などでは侍大将として活躍した。九州の宗像社の支配を任されたほか,養和1(1181)年には丹波国諸荘園総下司に任じられた。元暦1(1184)年の一の谷の戦で源義経の軍に討たれた。平氏に殉じた一生といえる。

(高橋慎一朗)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平盛俊」の解説

平盛俊 たいらの-もりとし

?-1184 平安時代後期の武将
平盛国の子。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱では平清盛重盛にしたがってたたかう。清盛家の政所(まんどころ)別当(長官)をつとめ,丹波国諸荘園総下司(げし)(管理責任者)となる。治承(じしょう)・寿永の乱では侍大将として活躍し平家第一の勇士といわれたが,寿永3年2月7日一ノ谷の戦いで討ち死にした。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例