平等寺村(読み)びようどうじむら

日本歴史地名大系 「平等寺村」の解説

平等寺村
びようどうじむら

[現在地名]筑紫野市平等寺

山口やまぐち村の南西にあり、権現ごんげん北東麓、北東流する山口川(権現川)最上流の山間部に位置する。南は肥前国基肄きい園部そのべ(現佐賀県基山町)。もとは山口村の内にあって上山口といったが、平等寺という寺があったのでこの寺の名を村名にして分村したという。同寺は岩屋合戦の際兵火にかかり、小庵のみ残っていた(続風土記)那珂なか上梶原かみかじわら村・埋金うめがね(現那珂川町)に出る道などが通っていた(続風土記拾遺)深山幽谷の山間地にあるため寒気が激しく、冬・春は雪が深く、盛夏にも蚊がいなかったという(続風土記)


平等寺村
びようどうじむら

[現在地名]宗像市平等寺・大谷おおたにいずみおか一―二丁目

つり川支流うら川流域に位置する。南は土穴つちあな村など、北は遠賀おんが高倉たかくら(現岡垣町)、北東は上畑じようばた(現同上)。建武元年(一三三四)三月二〇日の雑訴決断所牒(宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)に平等寺があり、宗像社の社領として安堵されたと考えられる。貞治四年(一三六五)九月二一日には平等寺などについて足利義詮寄進状(同上)が出されている。応安六年(一三七三)九月二八日、九州探題今川了俊は少弐冬資に大宮司宗像氏俊が訴えていた平等寺村の下地違乱を停止するように命じている(「今川了俊御教書」宗像大社所蔵文書/南北朝遺文(九州編)五)


平等寺村
びようどうじむら

[現在地名]平塚市豊田平等寺とよだびようどうじ南豊田みなみとよだ

西境すず川が流れ、東は宮下みやした村・中原上宿なかはらかみじゆく、北は豊田本郷とよだほんごう村、南は中原上宿・入野いの村に接する。東方を南北に大山道が通る。「風土記稿」は豊田本郷村よりの分村で、その時期は不明とする。正保国絵図に「平等寺」とある。

近世は初め幕府直轄領、宝暦一〇年(一七六〇)下総佐倉藩領。平塚宿の定助郷を勤め、享保三年(一七一八)の助郷高九七石(「平塚宿助郷帳」県史九)。慶応元年(一八六五)一〇月の定免割付状(平塚市史二)によれば、田九町五反余、うち上田三町九反余・中田二町余・下田三町五反余、畑屋敷一〇町八反余、うち上畑三町一反余・中畑二町九反余・下畑八反余、屋敷七反余とある。


平等寺村
びようどうじむら

[現在地名]吉川町平等寺

東は坪野つぼの村、西に東寺とうじ村がある。村内を平等寺川が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外七方分平等寺村 中」とみえ、本納六一石五斗六升・縄高一三三石三斗九升一合七勺、家一五軒・五一人とある。正保国絵図に高一〇〇石余とある。天和三年郷帳によれば高一〇一石八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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