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平貞能 たいらのさだよし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平貞能
たいらのさだよし

平安時代末期,鎌倉時代初期の武将。惟衡 (これひら) の末裔。父は筑後守家貞。祖先は元来東国平氏の出であったが,のち伊勢平氏に仕え,特に貞能は清盛の信任を得て,源平の合戦 (→治承の内乱 ) に活躍。九州地方を平氏が勢力下に収めたのは,彼の力による。平氏の都落ち後は出家し,外戚の縁で鎌倉幕府の御家人宇都宮朝綱を頼って源頼朝赦免を請うて許され,朝綱に預 (あずけ) の身となって一生を終った。法名は以典。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平貞能 たいらの-さだよし

?-? 平安時代後期の武将。
平家貞の子。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱にくわわり,以後平清盛の腹心として肥後(熊本県)菊池氏の反乱を平定するなど活躍。寿永2年(1183)平家一門とともに都落ちした。のち下野(しもつけ)(栃木県)の宇都宮朝綱(ともつな)のもとで余生をおくったとされる。

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朝日日本歴史人物事典の解説

平貞能

生年:生没年不詳
平安末期の武将,平氏の家人。家貞の子。清盛の「専一腹心者」とされ,政所家令を務める。筑前・肥後守など受領を歴任。保元の乱(1156),平治の乱(1159)にも参戦。源平争乱では侍大将として近江・美濃の追討に従事したのち,養和1(1181)年には肥後の菊池隆直らの反乱の鎮圧に当たり平定に成功した。寿永2(1183)年,九州の兵を率いて上洛したが,源(木曾)義仲の入京によって一門と共に西走(平家都落ち)。その際,貞能は一旦再入洛し平重盛の墓に詣でたという。さらに平氏一門の太宰府から屋島への脱出に従わず出家,平資盛と共に豊後の武士に捕らえられたともされる。文治1(1185)年に宇都宮朝綱を頼って源頼朝に降伏,助命され朝綱に預けられたが,その後の消息は不明。貞能は重盛やその子息たちと密接な関係を持ち,西走後の独自の行動も一門内で孤立した重盛の子の資盛らの立場と関係していた。<参考文献>上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』,角田文衛『平家後抄』,西村隆「平氏家人表」(『日本史論叢』10輯)

(元木泰雄)

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