日本大百科全書(ニッポニカ) 「広川晴軒」の意味・わかりやすい解説
広川晴軒
ひろかわせいけん
(1803―1884)
幕末・明治初期の洋学者。越後(えちご)小千谷(おぢや)(新潟県小千谷市)の質屋の子として生まれる。通称は亀七、のち徳三郎、名は魯(ろ)、晴軒は号で九皐楼(きゅうこうろう)主人ともいう。分家を継ぎ家業に従ったが学問を志し、56歳のとき和算家佐藤雪山(1814―1859)に入塾、58歳の1860年(万延1)江戸に出て、洋学者箕作阮甫(みつくりげんぽ)の塾に入り洋学を学んで帰郷。著述を業とし、メルカトル図法による世界図などを書いている。1866年(慶応2)刊の『三元素略説』は、温(熱)・光・越素(電気)の三者は名が異なるだけでその極限は同一であると論じた。これは後年狩野亨吉(かのうこうきち)によって紹介され有名となった。1870年(明治3)上京し集議院に太陽暦の採用を建白。のちに塾を開き教育にあたった。晩年は不遇であった。
[菊池俊彦]
『井上慶隆著『広川晴軒伝』(1981・恒文社)』▽『日本科学史学会編『日本科学技術史大系 通史Ⅰ』(1964・第一法規出版)』