箕作阮甫(読み)ミツクリゲンポ

デジタル大辞泉 「箕作阮甫」の意味・読み・例文・類語

みつくり‐げんぽ【箕作阮甫】

[1799~1863]江戸末期の蘭医美作みまさかの人。名は虔儒けんじゅ。江戸で宇田川榛斎蘭学を学び、幕府天文方翻訳掛、のち蕃書調所ばんしょしらべしょ教授となった。種痘所開設参画日米和親条約締結に参加著訳「外科必読」「海上砲術全書」。

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精選版 日本国語大辞典 「箕作阮甫」の意味・読み・例文・類語

みつくり‐げんぽ【箕作阮甫】

  1. 幕末蘭学者美作国岡山県)の人。名は虔儒、阮甫は通称。蘭医学、技術書などの翻訳に専念、幕府天文台翻訳方などを務めた。その訳書「水蒸船説略」をもとに、薩摩藩により、初の国産蒸気船が製造された。寛政一一~文久三年(一七九九‐一八六三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「箕作阮甫」の意味・わかりやすい解説

箕作阮甫
みつくりげんぽ
(1799―1863)

幕末の代表的洋学者。名は虔儒(けんじゅ)、字(あざな)は紫川(しせん)で、阮甫は通称。寛政(かんせい)11年9月7日(新暦10月5日)、津山藩医箕作貞固(1759―1802)の三男として生まれる。初め漢方を学んだが、江戸に出て宇田川榛斎(しんさい)(玄真)につき蘭学(らんがく)を学んだ。1839年(天保10)には幕府の天文台の蕃書和解(ばんしょわげ)御用手伝にあげられ、1855年2月(安政元年12月)の日露和親条約などの外交交渉にも携わった。同年新設の蕃書調所出役教授職に任ぜられ、1863年2月(文久2年12月)には幕臣にあげられたが、同年8月1日(文久3年6月17日)に死去した。1858年(安政5)開設の種痘所(東京大学医学部の最前身)の設立発起人にもなった。医学中心であった蘭学は、阮甫の段階で、自然科学、人文科学を包括する洋学に発展した。阮甫の3人の娘はいずれも蘭方医、洋学者と結婚し、その孫、曽孫(そうそん)には、箕作麟祥(りんしょう)、菊池大麓(だいろく)、箕作佳吉、元八、呉秀三(くれしゅうぞう)、坪井誠太郎ら各分野における日本の代表的学者が輩出した。

[岡田靖雄]

『呉秀三著『箕作阮甫』復刻版(1971・思文閣)』『蘭学資料研究会編『箕作阮甫の研究』(1978・思文閣出版)』

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朝日日本歴史人物事典 「箕作阮甫」の解説

箕作阮甫

没年:文久3.6.17(1863.8.1)
生年:寛政11.9.7(1799.10.5)
幕末の蘭学者。名は虔儒,字は痒西,阮甫は通称,紫川,逢谷などと号す。美作国津山藩(津山市)藩医貞固の次男として生まれる。12歳で家督を継ぎ,京都で吉益文輔に漢方医学を学び,文政5(1822)年藩医となる。翌年出府し,宇田川玄真について蘭学を修め,天保5(1834)年江戸八丁堀に医院を開いた。しかし火災に遭い,病弱もあって医院は断念,翻訳に専心した。伊東玄朴名義で『医療正始』『坤輿初問』などを訳述刊行後,わが国医学雑誌の最初といわれる『泰西名医彙講』を編訳刊行した。『外科必読』はじめ未刊のものが多い。安政4(1857)年洋医45人が種痘館(お玉ケ池種痘所)設立を企画した際,拠出者の筆頭となった。天保10(1839)年蛮社の獄で自殺した小関三英の後任として,江戸幕府天文方蕃書和解御用を命ぜられ,外交文書の翻訳に当たる。対露交渉に下田や長崎へ出張,ペリー応接にも翻訳官として活躍した。 安政2(1855)年隠居したが,幕府の蕃書調所創設に参画,同3年創立とともに教授職筆頭に任命され,同所の基礎を固めた。文久2(1862)年幕臣に列した。幕府出仕後は医書以外の訳述が多く,海外情勢研究に力を注いだ。19世紀の新世界誌を目指した『八紘通誌』はヨーロッパ編のみで終わったが,新鮮な情報を広めた。『極西史影』などの西洋史訳書も注目されるが,幕閣の命で杉田立卿 らと訳した『海上砲術全書』,蕃書調所で組織的にオランダの雑誌記事を編訳した官版『玉石志林』,島津斉彬 の依頼による『水蒸船説略』など公務上の訳業が重要である。阮甫は18世紀までの知識による蘭学を19世紀の情報で改めて集大成し,蕃書調所を官学として実践的に確立した。この過渡期の中心人物であり,しかも開国論者だったという。当時の最優秀テクノクラート学者といえよう。江戸白山の浄土寺に葬られ,のち多磨墓地(府中市)に改葬された。幕府への届出没日は文久3年11月7日。<参考文献>蘭学資料研究会編『箕作阮甫の研究』

(石山洋)

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改訂新版 世界大百科事典 「箕作阮甫」の意味・わかりやすい解説

箕作阮甫 (みつくりげんぽ)
生没年:1799-1863(寛政11-文久3)

幕末の蘭学者。名は虔儒(けんじゆ),字は庠西(しようせい),号は阮甫のほか紫川,逢谷。津山藩医箕作貞固(丈庵)の子。1815年(文化12)京都で吉益文輔に漢方医学を学び,22年(文政5)津山藩医となる。翌年,藩主に随行して江戸に出て,儒学を古賀侗庵に,蘭学を宇田川榛斎に学ぶ。39年(天保10)幕府天文方蛮書和解御用となり,翻訳にあたる。ロシア,アメリカの外交使節と応接。56年(安政3)蕃書調所設立に関し,初代教授となる。62年(文久2)幕臣に列せられる。訳著は《外科必読》,《医療正始》(伊東玄朴名義),日本で最初に刊行された医学雑誌といわれる《泰西名医彙講》《種痘略観》などの医学関係のほか,《八紘通誌》《八紘勝覧》《泰西大事策》《極西史影》《西史外伝》などの地理,歴史を中心に多数あり,《星学》《地質弁証》《海上砲術全書》《水蒸船説略》《日本風俗備考》《和蘭文典》など天文地学,兵器,電信,語学など広い分野にわたる。

 なお,津山藩医で,維新後の教育指導者である箕作秋坪,《新製輿地全図》《坤輿図識》を編訳した地理学者箕作省吾(1821-47)は,ともに阮甫の婿養子である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「箕作阮甫」の意味・わかりやすい解説

箕作阮甫【みつくりげんぽ】

幕末の津山藩蘭医。紫川と号。宇田川榛斎に学んだ。幕府天文方で蘭書翻訳に従事。1853年露使プチャーチンを長崎に応接し,1854年日米和親条約締結に参画。1856年蕃書調所教授。著書《外科必読》《泰西名医彙講》。
→関連項目呉秀三蕃書調所箕作秋坪箕作麟祥

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「箕作阮甫」の意味・わかりやすい解説

箕作阮甫
みつくりげんぽ

[生]寛政10(1798).津山
[没]文久3(1863).6.17. 江戸
江戸時代末期の蘭方医,蘭学者。津山藩主の侍医,箕作文庵の次男。京都に出て漢方医術を修め,郷里に帰って開業,藩主の侍医となる。次いで藩主に従って江戸に行き,同藩の蘭方医,宇田川榛斎について医学,蘭学を学んだ。天保 10 (1839) 年幕府の天文台である司天台の訳員 (翻訳方) となる。嘉永年間 (48~54) ,長崎と下田で筒井肥前守政憲,川路左衛門尉聖謨がロシアと条約交渉にあたるのを助けた。安政3 (56) 年蕃書調所の教授に命じられ,洋書調所と改称後も教授となり,幕臣に取立てられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「箕作阮甫」の解説

箕作阮甫
みつくりげんぽ

1799.9.7~1863.6.17

江戸後期の蘭学者。名は虔儒(けんじゅ),字は痒西(しょうせい),通称が阮甫,号は紫川・逢谷など。美作国津山藩医の家に生まれる。吉益(よします)文輔に漢方を,宇田川玄真(げんしん)に蘭方を学ぶ。江戸で開業したが火災に遭い,以後翻訳に専念。1839年(天保10)幕府天文方蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)の局に迎えられ,外交文書の翻訳にあたる。56年(安政3)蕃書調所教授に任命され,同所の基礎を固めた。「八紘通誌」「泰西名医彙講」など訳書多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「箕作阮甫」の解説

箕作阮甫 みつくり-げんぽ

1799-1863 江戸時代後期の蘭学者。
寛政11年9月7日生まれ。美作(みまさか)(岡山県)津山藩医。儒学を古賀侗庵(どうあん)に,蘭学,蘭方を宇田川玄真にまなんだ。天保(てんぽう)10年幕府天文台の訳員,のち蕃書(ばんしょ)調所教授となる。医書のほか多分野の訳書がある。文久3年6月17日死去。65歳。名は虔儒(けんじゅ)。字(あざな)は庠西(しょうせい)。号は紫川。著訳書に「泰西名医彙講(いこう)」「八紘(はっこう)通誌」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「箕作阮甫」の解説

箕作阮甫
みつくりげんぽ

1799〜1863
江戸後・末期の医師・洋学者
美作 (みまさか) (岡山県)津山の人。津山藩主の侍医。京都で医学を学び,のち江戸で宇田川玄真に蘭学を学んだ。幕府天文方の翻訳掛となり,蕃書調所の創設に際し,教授となった。外交交渉(日米和親条約)にも参加した。『外科必読』『産科簡明』をはじめ多数の著書がある。

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367日誕生日大事典 「箕作阮甫」の解説

箕作阮甫 (みつくりげんぽ)

生年月日:1799年9月7日
江戸時代末期の蘭学者
1863年没

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世界大百科事典(旧版)内の箕作阮甫の言及

【実学】より

…佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成卿ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。 明治以降となると,江戸期の学問はすべて空理を論ずる虚学とみなし,江戸末期の和魂洋才論的な発想の実学者たちが,あくまで儒学の優位性を主張したのに対して,西洋の政治,経済,哲学,軍事学をそれに代わるものとした。…

【蕃書調所】より

…そこでこれに対処するため洋学校の設立を図り,55年(安政2)に古賀増を洋学所頭取に任命し,翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称,九段坂下の旗本屋敷を改修して校舎にあて,同年7月に開所,翌57年1月から開講した。教官の陣容は教授職2名で,箕作阮甫(みつくりげんぽ)(津山藩医)と杉田成卿が任命され,教授手伝に川本幸民(三田藩医),高畠五郎(徳島藩医),松木弘安(薩摩藩医)ら6名,ほかに句読教授3名が任命されたが,その後逐次補充増員されて幕末に及んだ。教官ははじめ陪臣が大部分であったから,彼らはいつ主家から呼び戻されるかわからず,そこで幕府は主要な洋学者を直参に登用することにし,62年(文久2)に箕作阮甫と川本幸民を直参に取り立てたのをはじめ次々と直参に登用している。…

※「箕作阮甫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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