広河原村(読み)ひろがわらむら

日本歴史地名大系 「広河原村」の解説

広河原村
ひろがわらむら

[現在地名]左京区広河原〈尾花おばな町・下之しもの町・杓子屋しやくしや町・菅原すがはら町・能見のうみ町〉

現京都市最北部の山地から発する早稲谷わせたに川・能見川が桂川に合する辺りの谷間集落。昭和三二年(一九五七)まで京都府北桑田郡京北けいほく町に属す。江戸時代初期にはふなわらとよばれ、広河原村の初見は延宝四年(一六七六)検地帳である。

江戸時代以前は丹波国山国やまぐに(現京都府北桑田郡)の山地として位置づけられていたが、寛永年中(一六二四―四四)頃より、この地に山国十ヵ村が山番として出入し、徐々に定着する人口を増していった。従って寛文年間(一六六一―七三)頃までは山国十ヵ村の出村として存在していたが、延宝元年(一六七三)八桝やます村などの近隣諸村と組んで山国十ヵ村と境相論を起こし、独立村としての性格を強めていった。この時の京都町奉行の裁許によると、「八升村・大布施村よりハ論所船ケ原先規より施薬院為領知、毎歳年貢致収納」と施薬院領であることが認められ、

<資料は省略されています>

と決定された(広瀬清満家文書)


広河原村
ひろがわらむら

[現在地名]飯豊町広河原

須郷すごう村の南に位置し、集落は小屋こや川支流広河原川の流域山間にある。広川原とも記した。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高九三石余、免二ツ五分、家数六(うち役家一・肝煎一)・人数三八。蒲生氏高目録帳では村柄は下。寛永一五年(一六三八)検地(三浦文庫)では高一五八石余、田方六町五反余・畑方七反余、ほかに焼畑一反余、名請人数九、うち屋敷持五。上杉領村目録によると高二二三石余、本免一ツ九分四厘四毛。反別は田一三町九反余・畑六町余(寛政一二年改)、家数二六・人数一六六(うち神主一)、馬一三。漆木は四二三本、うち百万本口一三九、蚕利三一両。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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