廿枝村(読み)はたえだむら

日本歴史地名大系 「廿枝村」の解説

廿枝村
はたえだむら

[現在地名]南国市廿枝

香長かちよう平野の中心、後面ごめん村の北に位置する。北を国分こくぶ川が西流し、南部は灌漑用水路が縦横に流れる。西南部に年越としごえ(坂折山)丘陵があるが、ほかは平坦地が広がる。「土佐州郡志」は「東連山、西限八幡村之岩瀬川、南限西野地、北限国分川、縦七町許横二十三町許」と記す。西島にしじま弘井ひろい(広井)の小村があった。

和名抄」に記す古代の宗部そがべ郷の地に含まれる。中世末期には廿枝郷とよばれており、当村はその広範な廿枝郷の中心村であった。「大日本地名辞書」は「按に此廿枝郷は和名抄宗部郷の後称にして、秦氏と相因む所あるごとし、往昔秦地はたちと曰へるにあらずや」と記す。廿枝の語源を秦氏と関連して考え、秦氏(長宗我部氏)岡豊おこう城に居城してから、この地を秦の枝郷と解釈する説もあるが、つまびらかでない。長宗我部地検帳が廿枝郷とするのは南地(廿枝)・衙府中(比江)・国分・八饗やきよう唐岩からいわ笠川かさのかわ左右山そうやまの各地で、ほかに北部山間部の戸山とやま村などが含まれていたようである。


廿枝村
はたえだむら

[現在地名]阿南市新野町あらたのちよう

たちばな浦の西に位置し、村内を土佐街道が通る。古くは南荒田野みなみあらたの村に含まれたという。村内には里として花坂はなざか東山ひがしやま名光寺なこうじ・長国・遊坊・動々・西地があり、ほかに王子など四谷がある(阿波志)寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「はたえた村」とみえる。正保国絵図や寛文四年(一六六四)郷村高辻帳には村名がみえない。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男一八五・女一八七・僧二・山伏一。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高六七六石余。「阿波志」では土田は水陸田五九町九反余、高四〇三石の一〇分の八が采地

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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