弓木村(読み)ゆみぎむら

日本歴史地名大系 「弓木村」の解説

弓木村
ゆみぎむら

[現在地名]大多喜町弓木

田代たしろ村の南東平沢ひらさわ村の西、西畑にしはた川の支流弓木川上流域に位置する。元禄郷帳などには三条さんじよう村枝郷とある。文禄三年(一五九四)三月一日の西之畑之内弓木村坪入改帳(森家文書)では永高三貫一八三文、ほかに山銭永四〇〇文、名請人八、屋敷地七筆で名請人七。寛永一〇年(一六三三)の西之畠村々高割帳(君塚家文書)では高三四石余。明和六年(一七六九)の西畑二四ヵ村田畑名寄帳(野口家文書)では田三町余・畑四町三反余(うち茶畑八反余)領主変遷笛倉ふえぐら村に同じ。

弓木村
ゆみのきむら

[現在地名]岩滝町字弓木

村の西南部に枝村石田いしだがあって下山田しもやまだ(現野田川町)に接している。

中世末の丹後国御檀家帳に、

<資料は省略されています>

と記され、連歌師紹巴の「天橋立紀行」に「忌木と云浦まで舟にてあがる」とみえる。

慶長検地郷村帳に高八五六・二三石「忌木村」と記されるが、天和元年宮津領村高帳は「弓木村」と記し、石高も延宝九年(一六八一)の延高で一千三〇七石余と約五割三分増となっている。宮津藩領。幕末戸口は一九二軒、九四〇人(与謝郡誌)

弓木村
ゆんぎむら

[現在地名]作手村高松たかまつ

川手かわて村の北、西から流れともえ川に入る弓木川に沿って集落が点在する。耕地に恵まれない。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)再び幕府領に復したが、安永六年(一七七七)五千石の旗本鍋島直賢の知行となって幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報