下山田村
しもやまだむら
[現在地名]西京区山田〈嵐山町・上ノ町・大吉見町・御道路町・北ノ町・北山田町・車塚町・桜谷町・四ノ坪町・島子尾・庄田町・鈴ヶ尾・高尾・谷田山・弦馳町・出口町・中吉見町・鳴子尾山・猫塚町・捻木尾・箱塚町・畑田町・葉室町・林・久田町・平尾町・開キ町・南町・南松尾山・南山田町・六ノ坪町〉・下山田〈上園尾町・地蔵山町・下園尾町・丁塚町〉
谷村の南に位置。平野部では東を上桂・千代原両村に、南を御陵村に接する。西の山間部は西芳寺川南岸の山林一部と、唐櫃越以北の鴎谷上流域を含み、北はおおむね谷村、南は御陵・沓掛両村に挟まれる複雑な形をなす。集落は唐櫃越東麓の南北に走る街道に点在していた。
村名は古代の山田郷(和名抄)に由来する(→上山田村)。中世は当地付近が葉室とよばれ、参議大蔵卿藤原為房の二男顕隆を祖とする葉室氏が山荘を営み、「百錬抄」建長二年(一二五〇)八月一四日条に、「前藤中納言定嗣於
葉室山庄
出家、四十三、法名定然」とみえる。戦国期の公家山科言継は、外舅葉室頼継が山荘に隠居中度々当地を訪れ、当村の御霊社の祭礼を見物、猿楽が演じられていることを「言継卿記」に記している。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]山田町北浜町・山田
山田湾の西岸北部、関口川の河口にあって、東は大沢村および山田湾に面し、北西は上山田村、南は飯岡村。浜街道が海岸沿いを通る。「三閉伊路程記」に「関屋沢の橋を渡、少行左に大杉明神の社有、少し行て下山田也、下山田は町屋作にて飯岡へ続也、下山田町ハ百六拾間程にて飯岡との村境也」とある。建武元年(一三三四)三月三日、北畠顕家は目代南部又次郎に山田六郎による大沢牧狼藉の事実確認を命じている(「北畠顕家国宣」遠野南部文書)。山田六郎とは、その名から上山田村・下山田村および飯岡村などこの地方を所領とする小土豪であったと考えられる。この事件がその後どう処置されたかは不明であるが、応永二六年(一四一九)八月六日の南部政光下知状(同文書)によれば、六郎の所領跡地のうち飯岡村は南部氏の所領となっている。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]山田市下山田
市域の北部に位置し、東は豊前国田川郡猪膝村(現田川市)、北は筒野村(現庄内町)、西は山田川を隔てて漆生村・才田村・平村(現稲築町)。元禄国絵図に村内として中山田村がみえ、田圃志は中山田村を枝村とする。暦応四年(一三四一)一二月二〇日、足利尊氏は筑前安国寺(景福寺)の寺領として「下山田四十町尾藤六郎左衛門尉跡」を寄進している(「足利尊氏寄進状」相良家文書/大日本古文書五―一)。これに先立ち、同年五月二九日に足利直義は寺領設定のため、筑前国内の闕所地から得分三〇〇貫相当の「便宜之地」を注進するよう筑前守護少弐頼尚に命じており(「足利直義書下」同上)、南朝方の尾藤氏の所領である当地を北朝方が制圧していたものと考えられる。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]高岡市下山田
芹谷野段丘の中央東側にあって、御坊山との間を和田川が曲流しながら北へ向かう。西は東保村、南は増山村(以上、現砺波市)。慶長九年(一六〇四)の野銭申付状(「御印之写」川合家文書)によると下山田の野銭が三〇〇文から七〇〇文とされたが、四〇〇文が未納のため東保村丞右衛門に納入が申付けられている。元和五年(一六一九)の家高新帳では、戸出又右衛門組に属し、役家数四。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]川辺町下山田
川辺郷永田村の西に位置し、大倉野・荒多(荒田)・日吉・天神・諏訪・大山・原田・上村・下村・塩入・片平の集落がある。村内を万之瀬川の支流大谷川が北流する。中世は山田村に含まれていた。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の次男経家に「しもやまたのむら」などが譲られている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高一千二〇〇石余。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]湖北町下山田
二俣村の北東に位置。集落の南を山田川が西流する。同川上流域を上山田、中・下流域を下山田と称した。また小谷山東麓の諸集落を合せて山田郷(庄)と称し、天文二年(一五三三)七月一一日の浅井亮政下知状(南部文書)には「山田庄之内青名」とみえ、天正―文禄期(一五七三―九六)の山年貢高・家数などを記した山田郷山年貢等覚(東浅井郡志)には上山田・下山田のほか二俣・八日市・郡上などの名が載る。永禄一三年(一五七〇)三月一二日には浅井久政が高田や浄心寺(現伊香郡木之本町)と推定される「木本御寺」などの地下人を「山田」に召出し「中三日」の用役につかせている(領家文書)。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]福山市熊野町
長和村の西南に位置し、中世、上・中・下の山田村域を山田庄と称したというが確証はない。文和元年(一三五二)六月渋川直頼が子義行に山田村を譲ったことが渋川家文書(「福山市史」所引)にみえ、天正一四年(一五八六)と推定される正月二二日付真木島昭光書状(常国寺文書)などに地名山田が散見する。なお康正年間(一四五五―五七)に渡辺信濃守兼が下山田城を築いたことが「備後古城記」にみえ、当地の金持には金玉山金持寺があったといわれ、金持寺後ろの山際に渡辺越中守兼に討たれた宮信元の墓があるという(備陽六郡志)。信元の居城はつまびらかではないが、一説には当村内の高谷(現在は中山田甲谷)にあった城がこれにあたるとする(同書)。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]野田川町字下山田
北は弓木村(現岩滝町)の南、石田に境し、南は水戸谷口で上山田村に接する。
丹後国田数帳に「山田郷 廿七町卅四歩内」とある山田郷の一地域。石田が石河庄であったことをもってすれば、時期によっては一部は石河庄となっていたことも考えられる。慶長検地郷村帳に高八九五・九四石「下山田村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で一千九八石余となった(天和元年宮津領村高帳)。約二割三分の低率の伸びである。宮津藩領。
農村であるが加悦谷機業地帯にあって早くより縮緬機が起こった。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]邑久町下山田
千町平野の南端を西に流れる千町川と、南の上山田村から北流する是安川とに囲まれた丘陵上およびその麓に位置。中世には上山田村とともに山田村として推移。宝徳四年(一四五二)二月九日の大夫二郎売券(本蓮寺文書)によれば、下山田の一段四〇代の地を、泊浦大夫二郎が五貫一〇〇文で綾浦八郎二郎に売却している。この土地には八月一五日八幡宮に、酒五斗五升を奉納する公事があった。
寛永備前国絵図に村名がみえ、高七二五石余。「備陽記」には、田畑五六町一反余、家数一四三・人数九七一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、直高一千一五九石余で家老伊木氏の給地。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]いわき市山田町
鮫川の支流山田川流域にあり、北は上山田村、南は仁井田村。応永二三年(一四一六)一一月一日の足利持氏御判御教書(上遠野家古文書)に「喜久田知行分事 かまと ゆもと くろその山田 下山田」とみえ、関東公方の料所で、上杉禅秀の乱で持氏側についた上遠野与次五郎に預けられている。菊多郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、宝永三年(一七〇六)以降湯長谷藩領。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]宇ノ気町下山田
上山田村の北、谷間を隔てて位置する。集落は丘陵に沿う。もと上山田村とともに山田村と称したが、戸数が増え分村したという。正保郷帳では上山田村と一括して高付される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一一石、免五ツ一歩、小物成は山役六一匁、油役三匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。同年間の百姓数一六(高免付給人帳)。文化八年(一八一一)には田二八七石余・畑一二石余・総居屋敷高一〇石余、家数二七・人数一二〇、牡馬七、居百姓持高一八五石余(「河北郡村々書上帳」林文書)。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]西山町下山田
別山川西岸にある。南東は川を隔てて田沢村・池浦村・礼拝村、北西は鎌田村・伊毛村。元和二年(一六一六)から椎谷藩領。正保国絵図に高九三石余。寛永二年(一六二五)の椎谷御領所諸村覚(西村家文書)では男三四・女三一。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]御調町下山田
貝原村の北に接する山村。御調川の支流山田川と、それに合流する北西からの小流の流域緩傾斜面に農地が展開。北西部に大原村の飛地がある。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では貝原村に含まれる。分村の時期は不明であるが、旧版「広島県史」所収の正徳(一七一一―一六)頃の記録に村名がみえ、高一一〇・八四石。
下山田村
しもやまだむら
[現在地名]村上市下山田
北西へ流れる山田川右岸の山裾にあり、東方上流は上山田村、下流は四日市村、北は村山を隔てて大場沢村(現岩船郡朝日村)。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「鮎川分下山田村 下」とみえ、本納一〇五石五斗六升・縄高一三五石六斗三升八合、家六軒とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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