弘田郷(読み)ひろたごう

日本歴史地名大系 「弘田郷」の解説

弘田郷
ひろたごう

古代多度たど郡弘田郷(和名抄)の郷名を継ぎ、弘田町を遺称地とし、一帯に比定される。保延四年(一一三八)讃岐国守藤原経高は、散在していた善通寺領と曼荼羅まんだら寺領を両寺の周辺に集中一円化した(長寛二年七月二〇日「善通曼荼羅両寺所司等解」東寺文書)。久安元年(一一四五)一二月の善通曼荼羅両寺々領注進状(宮内庁書陵部所蔵文書)によれば、弘田郷四条七里と八里の地域の田代六町七段(見作四町二〇歩)、畠五町三段半(見作二町一段、河成八反半)の合計一三町九段が一円寺領のうちに含まれている。この地域は鎌倉時代に京都随心ずいしん院を本所とする一円いちえん保の一部となる。保に属さなかった郷域は公領として続き、鎌倉前期の一時期藤原定家の所領となった。定家の日記「明月記」によると、寛喜二年(一二三〇)閏一月一二日、弘田郷公文の子息左衛門尉信綱の請所とすることについて相門(西園寺公経)より下問があり、一七日に信綱への代官補任の定家下文を公経に提出し、信綱の請文を受けとっている。信綱は一〇月一四日に国検から仏田一村を免除されるよう定家に懇望し、定家はその旨を相門に報告している。


弘田郷
ひろたごう

和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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