国検(読み)こくけん

改訂新版 世界大百科事典 「国検」の意味・わかりやすい解説

国検 (こくけん)

国衙検注または国司検注略称。古代では,国司徴税の正確を期するためにしばしば検田使などを派遣し,管国内の公領の面積・税額・名請人(担税者)などの実情を調査させた。これが国検であり,その行為を検注検田などと呼んだ。平安時代中期ごろまでは一応国衙の支配権も強く,台頭しつつあった荘園勢力に対抗する意味もあって,国検は実質的な効果をもっていた。とくに国司交替の際には,新任国司は〈初任検注〉と称し,任国の検注を実施するのが彼らの当然の義務であった。こうして国検は慣習として中世まで継承された。国検は初任検注以外にも,必要に応じしばしば行われた。伊予国国分寺の建徳2年(1371)の文書には〈乾元幷文永国検帳〉とみえ,また信濃国でも元亨4年(1324)の市河文書に〈捌ヶ年壱度田頭国検〉とあって,この国では8年に1度は現実の国検が行われるのが原則であったことがわかる。現地で国検を実施したのは,伊予国では〈検注所〉であり,国の役人と思われる目代,書生(しよしよう)および測地技術者と思われる図師たちであった。信濃国では応安6年(1373)の初任検注に,書生,図師のほかに守護使が加わっている例がある。こうして検注が行われると,検注帳が作成された。そしてその事情は荘園の場合と異ならなかったと推定される。また上記のように〈田頭国検〉すなわち現地調査のほかに,〈居合(いあい)検注〉すなわち旧検注帳の踏襲も行われ,それに伴う謝礼銭の徴収が行われた形跡もある。

 国検の命運は,国衙勢力の消長にかかっているのは自明である。鎌倉幕府の政治的干渉を受けたことを示す史料がある。すなわち《吾妻鏡》によれば,1239年(延応1),信濃国司の初任検注にあたり,その年の諏訪大社の重要神事に参仕する地頭御家人は,所領に対し検注免除を幕府に申請した。幕府は先例に徴して,国司在任中はこれを免除する処置をとった。これは幕府の国司検注権に対する干渉にほかならない。また《園太暦》所載の康永4年(1345)の摂津国の国司申状によれば,同国の検注にあたり農民は権門勢家の威をかり,耕地面積をごまかし,損免を強請する事態が起こっていると訴えている。また東大寺・久我家両文書に従えば,明徳3年(1392)信濃国正税が東大寺に造営料として寄付されたとき,当時の国司久我具通は正税寄進は勅命だからやむをえないが,少なくとも国司としての検注権だけは久我家の当然の権利であると強調している。この場合の検注権は,検注請料の徴収権をいうのかもしれない。それはともあれ,以上の2例は,南北朝から室町時代初期ごろになると,国司の管国検注権は国司自体の全面的な衰亡の事実と相まって,国検の滅亡の事実を示している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「国検」の解説

国検
こっけん

平安中期~室町前期に行われた国衙(こくが)による1国の検注(けんちゅう)。10世紀,国司に検田権が委譲されるにともない,官物賦課の基準となる公田の状況把握のために始められたが,院政期になると荘園・公領の別なく賦課する一国平均役の徴収と荘園整理のために行われるようになった。国司の交替時に行われるのが原則で,初任検注とよばれた。鎌倉時代になると幕府・守護が国衙を指揮して行うようになり,検注の結果は大田文(おおたぶみ)に記されて,中世的な所領単位が確定された。室町時代にもいくつかの国では定例化したかたちで残っていたが,これは検注用途の徴収を目的とした形式的なものと化していた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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