当麻村(読み)たいまむら

日本歴史地名大系 「当麻村」の解説

当麻村
たいまむら

[現在地名]相模原市当麻・青葉あおば二―三丁目・松が丘まつがおか一―二丁目・大野台おおのだい三―四丁目・双葉ふたば一丁目

相模川が西から東南に流れ、北は田名たな村・上溝かみみぞ村、東は下溝しもみぞ村に接し、対岸の愛甲あいこう上依知かみえち(現厚木市)より当麻渡で結び天満宮前で西へ向かう古来からの八王子道と上溝村へ北上する近世に作られた八王子道、さらに東の河岸段丘上に久保沢くぼさわ道がある。地形は三段に分れ、西南の低地の氾濫原から東にかけて水田があり、上部高台で相模野に続く。下溝村の北境に飛地がある。

「吾妻鏡」建久四年(一一九三)八月一〇日条にみえる源範頼の家人で謀反の疑いをかけられた当麻太郎の名字の地との伝承がある。永正九年(一五一二)八月一九日、当地に侵入した北条早雲により制札(県史三)が「当麻」に下されている。早雲の相模への侵入の頃は「当摩者境目夜打・強盗、路次不自由」の地であったという(天正一四年七月一〇日「関山通定訴状」同書)小田原衆所領役帳には当麻三人衆「百弐拾五貫文 東郡当麻」とある。相模川渡河点として早くから市・宿・関が置かれた。

当麻村
とうまむら

[現在地名]上川郡当麻町三条西さんじようにし二―四丁目・三条東さんじようひがし二―四丁目・四条西よんじようにし二―四丁目・四条東よんじようひがし二―四丁目・四条南よんじようみなみ三丁目・五条西ごじようにし二―四丁目・五条東ごじようひがし二―四丁目・六条西ろくじようにし三―四丁目・六条東ろくじようひがし三―四丁目・伊香牛いかうし宇園別うえんべつ開明かいめい市街しがい中央ちゆうおうひがし北星ほくせい緑郷ろくごう

明治三三年(一九〇〇)から昭和三三年(一九五八)まで存続した上川郡の村。「丁巳日誌」(再石狩日誌)に「ウシシベツ川」(牛朱別川)筋の枝川の一つとして「トウマ」とみえる。明治二六年五月、当地に屯田兵第三大隊第五中隊・第六中隊の屯田兵および家族が入地して開拓が始まった。

当麻村
たいまむら

[現在地名]當麻町大字当麻

二上山東麓、当麻寺門前に所在。古代の当麻郷の地で、交通の要所。「日本書紀」垂仁天皇七年七月七日条に「当麻邑に勇み悍き士有り。当麻蹶速と曰ふ」とみえ、古くはタギマといった(→当麻郷河内から関屋せきや(国分峠)で大和に入り、当麻村を通って長尾ながお村で竹内たけのうち街道(初瀬街道)に合流する長尾街道沿いの現香芝かしば町内の道標には「たへま」「たゑま」と刻む。平安朝以降当麻寺詣の隆盛によって、門前町として繁栄。また鎌倉時代には、当麻寺仁王門北側に当麻国行一門の刀匠が居住、世に当麻鍛冶といわれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報