彦根城跡(読み)ひこねじようあと

日本歴史地名大系 「彦根城跡」の解説

彦根城跡
ひこねじようあと

[現在地名]彦根市金亀町・尾末町・城町

湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦は一七日の佐和山合戦で石田三成の佐和山さわやま城が陥落、井伊直政は徳川家康により三成の旧領近江の地を与えられ、従来の一二万石に六万石を加えられ一八万石を領する有力大名となった(井伊年譜・井伊家譜)。のち加増を重ね、彦根城を築き城下町を建設し、近江の地にあって幕府の意を受けて京都および西国・中国を押える任務を負った。彦根の位置は中山道にやや離れるが、琵琶湖岸に近い朝鮮人街道を整備するとともに両道を結ぶ道を開いた。北方米原からは北国街道が発しており、有事の際にはこれらの幹道により東・北・南の三方を押えうる要地であった。一方、西は湖に面し、湖南の坂本に走る舟運力をもってすれば京都は近い。幕府が井伊家に与えた役割の重要さがうかがえ、その信任の厚さは何代にもわたって就任した大老職をあげるまでもなく知られるところである。彦根城は天守のみでなく、櫓・門・馬屋などを含め城郭総体としてまとまった姿を今日に伝える。

〔築城前後〕

築城以前の景観は、彦根古絵図(彦根市立図書館蔵)などによれば、佐和山城を古城と記し、彦根山の谷間に観音信仰で平安時代から都人に知られた彦根寺などが描かれ、北西方に長尾ながお山、その西麓に金亀こんきガ淵、東方に尾末おすえ山があり、尾末山の東端に世理せり(善利川とも、現芹川の旧流路)が流れ、彦根山の北裏手に広がる松原まつばら内湖に注いでいる。同川は南方で西に分流し、やはり湖に注ぐ。この絵図で見る限り水城とはいいきれないものの、湖上水運を最重視した選地であることがうかがえる。ただ直政は松原の北、磯山いそやま(現坂田郡米原町)に移築しようとしていたらしいが、その没後、嫡子直継(直勝に改名)が幼少であったため老臣木俣土佐が駿府へ下り、幕府の許可を得て彦根城に決定した。

築城の期間は慶長八年から元和八年(一六二二)にわたるが、大坂両陣を境に二期に分けられる。工事を監督する公儀奉行は山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門が任じられ、役夫は伊賀(上野藩)・伊勢(桑名藩・津藩・亀山藩など)・美濃(大垣藩・加納藩)・若狭(小浜藩)・越前(福井藩)の七国一二大名に賦課された(井伊年譜)。なお「木俣記録」では二八大名・九旗本となっている。一方、井伊家は家中に縄張りとして四人、普請奉行として三人、作事奉行として一人、大工棟梁として一人を任じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「彦根城跡」の解説

ひこねじょうあと【彦根城跡】


滋賀県彦根市金亀(こんき)町・尾末町ほかにある城跡。別名、金亀城。琵琶湖を北に望む独立丘陵の金亀山(彦根山)上に位置する。関ヶ原の戦い後、その軍功によって近江国に封ぜられた井伊家の城として、尾張藩越前藩など多くの大名が手伝いを命じられて1603年(慶長8)に着工、1606年(慶長11)には天守が完成していたと考えられる。築城当時の山の周辺は沼沢地であったが、埋め立てられて城下町が形成された。以来、明治時代の廃藩置県まで彦根藩庁が置かれ、井伊家16代の居城であった。3層3階の天守をはじめ、附櫓(つけやぐら)、多聞櫓が国宝に指定され、天秤櫓、太鼓門、馬屋などが重要文化財になっている。強固な石垣に支えられた天守は、通し柱を使わず各階ごとに積み上げられ、花頭窓(かとうまど)や高欄があり、千鳥破風(はふ)、切り妻破風、唐破風、入り母屋破風が組み合わされた優美な外観をもっている。城の北側には、天守を借景として島を浮かべ橋を配した池庭である玄宮園と、数寄屋建築などからなる楽々園という建物部分があり、「玄宮楽々園」として名勝に指定されている。江戸時代の遺構をよく残した城として、1951年(昭和26)に国の史跡に、1956年(昭和31)には特別史跡に指定された。JR東海道本線彦根駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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