日本歴史地名大系 「彦根城跡」の解説
彦根城跡
ひこねじようあと
湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦は一七日の佐和山合戦で石田三成の
〔築城前後〕
築城以前の景観は、彦根古絵図(彦根市立図書館蔵)などによれば、佐和山城を古城と記し、彦根山の谷間に観音信仰で平安時代から都人に知られた彦根寺などが描かれ、北西方に
築城の期間は慶長八年から元和八年(一六二二)にわたるが、大坂両陣を境に二期に分けられる。工事を監督する公儀奉行は山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門が任じられ、役夫は伊賀(上野藩)・伊勢(桑名藩・津藩・亀山藩など)・美濃(大垣藩・加納藩)・若狭(小浜藩)・越前(福井藩)の七国一二大名に賦課された(井伊年譜)。なお「木俣記録」では二八大名・九旗本となっている。一方、井伊家は家中に縄張りとして四人、普請奉行として三人、作事奉行として一人、大工棟梁として一人を任じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報