文治政治(読み)ブンチセイジ

デジタル大辞泉 「文治政治」の意味・読み・例文・類語

ぶんち‐せいじ〔‐セイヂ〕【文治政治】

文治による政治。特に、江戸時代、4代将軍家綱から7代将軍家継までの政治支配のあり方をいう。→武断政治2

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改訂新版 世界大百科事典 「文治政治」の意味・わかりやすい解説

文治政治 (ぶんちせいじ)

儀礼法制,教化などの整備充実を通じて社会秩序の安定を維持しようとする政治。武力権謀による強圧主軸とする武断政治と対蹠的に用いられる。語句としては古く《礼記(らいき)》にも見えるが,日本ではとくに17世紀中ごろ,江戸幕藩政治が武断から文治へ転換したというのが通説的見解である。その指標としては朝幕関係の融和大名改易減少法令制度の整備,儀礼の尊重,人民教化の重視,学芸の振興,政治における儒教の影響の進展などがあげられている。近世の政治がこのような転換の現象を呈するのは,17世紀中ごろ幕藩支配体制が安定期に入るとともに,朝幕関係,幕藩関係という支配階級内部の緊張が緩和する一方,階級間の矛盾が徐々に表面化の傾向を示してきたのに対応して生じてきた政治の変化である。享保改革において武断復古政治へ逆行したという見解もあるが,それは幕府最高首脳部の趣向や性格や主観的立場の相違を誇張した見解であり,文治的傾向は享保改革においていっそう進展している。
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旺文社日本史事典 三訂版 「文治政治」の解説

文治政治
ぶんちせいじ

江戸中期,4代将軍徳川家綱から5代綱吉・6代家宣 (いえのぶ) ・7代家継までの儒教的徳治主義に基づいた幕府の政治体制
幕府創設期の武力を背景に大名らを制圧する武断政治に対する語。家綱の襲職は1651年で,すでに関ケ原の戦いから50年が経過し,世代の交代で戦国の遺風も薄れ,武士も文官的要素が重んじられるなど時代の転換期を迎えていた。このような中で新生活倫理として儒教の徳治主義が登場,武断政治で強化された将軍権力を文治政治の権威づけでいっそう高揚することになった。慶安事件後の処置として牢人の再就職斡旋をとりあげ,末期 (まつご) 養子の禁を緩和している。大名の改易が激減し,殉死を禁じたのもその現れである。綱吉も儒学奨励策で将軍の権威づけにつとめ,家宣・家継の正徳の治では新井白石が参政,最高潮に達したが,形式主義に陥り8代吉宗の享保の改革で武断的傾向に復帰した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「文治政治」の解説

文治政治
ぶんちせいじ

法制や行政組織の整備,人心の教化などを基礎として世を治め,社会秩序の安定をはかろうとする政治体制。江戸幕府の場合,17世紀中葉から大名改易の緩和,牢人対策,法律・制度の整備など文治主義的な政治理念にもとづく諸政策がみられるところから,この時期に武断政治から文治政治への転換がなされたとされる。ただし「武断」「文治」という対比で幕府政治を理解することには疑問も出されている。

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百科事典マイペディア 「文治政治」の意味・わかりやすい解説

文治政治【ぶんちせいじ】

武力で圧伏する武断(ぶだん)政治に対応する政治手法。日本史上では4代将軍徳川家綱(いえつな)の時,幕藩支配体制の安定期に入り,儒教的徳治主義をとる文治政治に転換したとされ,朝幕関係の融和,大名の改易の減少,法令・制度の整備,学芸の振興策などがとられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文治政治」の意味・わかりやすい解説

文治政治
ぶんちせいじ

武断政治・文治政治

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