得橋郷
とくはしごう
「和名抄」記載の古代能美郡兎橋(得橋)郷を継承する。中世に得の読みが「う」から「とく」に転じたものと思われ、徳橋郷とも記された。郷域は北は現寺井町牛島・佐野付近から、東は鍋谷川中・下流域の現小松市上八里町・下八里町付近、南は梯川中流左岸にあたる同市佐々木町・荒木田町まで広がり、加賀国府の所在が推定される同市古府町の低台地を含んでいたと考えられる。郷内には牛島村とも称された得橋本郷をはじめ、南佐野村・北佐野村、佐羅村(所在地不明)、現小松市域に比定される今村などの諸村や得南(徳南)・長恒・益延の各名、加賀総社府南社などが含まれていた。
建仁元年(一二〇一)七月二〇日の介某(板津成景)譲状案(石清水文書)に「得橋郷」とみえ、次男江沼三郎(長野景高)に譲られた能美庄内重友保(現寺井町)と北に境を接していた。永仁二年(一二九四)九月一七日、埴田介成清と尼妙蓮は子の成政に所領「得橋郷長恒名内荒木田」内の畠、「佐々木窪田乱橋田水口町田」などを譲り、成政は同五年二月二二日、幕府よりこれを安堵されている(「関東下知状案」同文書)。これらの地は加賀国府推定地の南辺にあたる梯川の対岸に位置しており、在庁名の系譜を引くものと考えられる。当郷はもと得橋介を称した在庁官人系の在地領主得橋氏の所領で、その後没官されて地頭職は六波羅探題料所となっていたが(徳治三年五月二日「六波羅探題裁許状案」南禅寺文書、以下断りのない限り同文書)、正安四年(一三〇二)石川郡笠間東保(現松任市)などとともに、筑前国宗像社(現福岡県大島村・玄海町)の代りとして禅林寺殿(亀山法皇の母大宮院の離宮、のちの京都南禅寺)へ寄進された(同年一一月二二日関東御教書案など)。
嘉元二年(一三〇四)白山中宮三社(現吉野谷村の中宮・佐羅宮と現鳥越村の別宮)雑掌貞清は得橋本郷(牛島村)地頭丹波貞高(典薬頭を歴任した丹波氏の一族)の代官乗賢が当郷内の「佐羅別宮御供田」五町余を押領したと訴え、六波羅探題の両使が下向、下地を貞清に打渡した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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