牛島村(読み)うしじまむら

日本歴史地名大系 「牛島村」の解説

牛島村
うしじまむら

[現在地名]寺井町牛島

末信すえのぶ村の南、手取川とかけはし川の中間に位置する。村名は八丁はつちよう川と鍋谷なべたに川を南北に挟んだ広い島が牛の形をしていたとか、牛のいる島ということで名付けられたといわれ、牛を連れた老人の言に従い開拓したのが村の起こりだという伝説がある。またもとは宮の島みやのしまというところに集落があったが、低地で水害にたびたびあうので周りに竹を植え水難を防いだことからやぶ村ともよんだという(寺井野町史)

京都南禅寺得橋とくはし郷に属し、北は能美庄重友しげとも(重友村)、西は郡家ぐんけ長野ながの保に接し、得橋本郷とも称された(→得橋郷。嘉応三年(一一七一)二月日の中原頼貞譲状案(石清水文書)に「牛島堺板津庄示外重友村」とみえる。嘉元二年(一三〇四)「得橋本郷牛島村」地頭丹波掃部助貞高(典薬頭を歴任した丹波氏の一族)の代官乗賢が別宮供田を押領したと雑掌貞清から訴えられている(徳治三年五月二日「六波羅探題裁許状」南禅寺文書、以下同文書は省略)


牛島村
うしのしまむら

[現在地名]鴨島町牛島うしじま

現鴨島町域の北東端、東流する吉野川の南岸に位置し、東は名西みようざい高原たかはら村・浦庄うらしよう(現石井町)、西は喜来きらい村。南は飯尾いのお川を境に上浦かみうら村など。村の中央を吉野川の旧分流である川が東流する。牛之島などとも記した。貞治三年(一三六四)三月日の檀那譲状(仙光寺文書)で「牛嶋の崎来のゑんしちゑんしゆう兄弟」や「牛嶋の中村のけうれん」の一族(同妻女の一族とも)の檀那職などが善智から弟子の大輔房に譲られている。なお「崎来」は喜来にあてられる。慶長二年(一五九七)の分限帳では田川権右衛門知行分のうちに牛島高一千六八石余がみえる。同九年の検地帳(麻植郡誌)によると高一千六五石余。


牛島村
うしじまむら

[現在地名]秋田市牛島東うしじまひがし一丁目・三―七丁目・同西にし一―四丁目・牛島町茨島ばらしま四丁目・六丁目・七丁目

太平たいへい川を隔てて北は久保田楢山くぼたならやま町に続き、南は猿田さるた川を境に仁井田にいだ村に接する。猿田川は牛島村西方で北流し、太平川に合流する。久保田城下の商業圏に入る羽州街道の街村集落。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「なら山村 牛島村」とあり、太閤蔵入地。

梅津政景日記」元和二年(一六一六)八月一〇日条によれば藩主が江戸に上る際、牛島のお茶橋まで見送った。同書寛永八年(一六三一)五月一八日条に「牛嶋ニ野午御仕立可被成置由、駄三十疋比内より被為召寄候」と、未開発だった原野を馬の放牧場にあてたが、翌年には狼に食い殺されたり、成長が悪かったりで牧馬を処分したようである。


牛島村
うしじまむら

[現在地名]富山市牛島・牛島町・牛島本町うしじまほんまち一―二丁目・牛島新町うしじましんまち愛宕町あたごまち一丁目・神通町じんづうまち一―三丁目・神通本町じんづうほんまち一―二丁目・宝町たからまち一―二丁目・新富町しんとみちよう一―二丁目・桜町さくらまち一―二丁目・明輪町めいりんちよう

神通川の下流西岸、愛宕村のやや北の低地にある。村名はかつて神通川中の小島で形が牛に似ていたことに由来するという(婦負郡志)婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。慶長一七年(一六一二)の知行方目録(北徴遺文)によると、前田利長は婦負郡牛島村の六石余など都合一千石を前田長時(加賀藩家臣前田長種の次子)に与えている。


牛島村
うしじまむら

[現在地名]長野市若穂川田 牛島

さい川・千曲川の合流点にあたる千曲川右岸にある。東は保科ほしな川を境に綿内わたうち村の田中・古屋、南は川田村と赤野田あかんた川及び耕地と境をなす。千曲川の川筋移動により村は三分しており、犀川北に北向川原きたむこうがわらと合流点の西向川原の集落と千曲川右岸の牛島村本村とからなる。

慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)には「六百三石八斗 牛島村」が高井郡内にみえる。


牛島村
うしじまむら

[現在地名]春日部市牛島

藤塚ふじつか村の北に位置する。村の西側を古利根川、北の樋堀ひぼり村との境を倉松くらまつ落堀、東側を庄内古しようないふる川が流れる。葛飾郡松伏まつぶし領に属した(風土記稿)。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(田園簿・改革組合取調書など)。田園簿では高二八四石余(皆畑)。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施され、明和三年(一七六六)・寛政六年(一七九四)には新田検地が行われたという(「風土記稿」など)。日光道中粕壁かすかべ宿の助郷村であったが(「村鏡類諸書物留書」中島家文書)、低地に位置するため水害を受けやすく、助郷役は重い負担となっていた。


牛島村
うしじまむら

[現在地名]開成町牛島

西境を要定ようさだ川が流れ、東は吉田島よしだじま村、北は延沢のぶさわ村、南は曾比そび(現小田原市)と接し、中央を東西に矢倉沢やぐらさわ往還が通り、武永田ぶえいだ堰が東境を流れる。小田原衆所領役帳に寿星軒「四拾一貫文 西郡牛島」と記す。

近世は小田原藩領であるが、瀬戸文書の「万日記」元禄一〇年(一六九七)五月の項に「鵜殿知行所牛嶋村ニ有之候」とあり、翌一一年の項では「牛島村一部」を同知行所としている。村内は東西両組に分れ、元文三年(一七三八)の村々入会山請証文帳(県史五)に「牛嶋村両組」、明和三年(一七六六)の商人書上帳(井上文書)に「両牛島村」とあるのは、旗本鵜殿氏支配地も小田原藩に編入された事実を示すものと思われる。


牛島村
うしじまむら

[現在地名]筑紫野市牛島

天山あまやま村の北西、ほぼ南流する宝満ほうまん川右岸にある。西は針摺はりすり村、南は永岡ながおか村。日田街道が北西から南東へ通る。延宝年間(一六七三―八一)に集落を元村という所から移したという(続風土記附録)。小早川時代の指出前之帳では牛島村の田一一町四反余(分米一〇七石余)・畠四町三反余(分大豆二七石余)。慶長六年(一六〇一)三月一八日「牛嶋村」二〇五石余が久野二右衛門(重綱)の給知となる(「黒田長政知行目録」久野家文書)。同七年の検地高は二七四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二七九石余、家数二一・社一、人数一五三(田圃志)


牛島村
うしじまむら

[現在地名]佐賀市巨勢町こせまち大字牛島

佐賀城下の東の出入口である構口の東方一帯。長崎街道に沿って牛島宿もあるが、もともと広々とした水田地帯である。

牛島庄の中心で、巨勢神社があり歴史的にも古い地域。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)には「肥前国安楽寺御領」に「牛島庄六十丁」が記されている。また嘉暦三年(一三二八)の国分季朝請文(竜造寺家文書)には「肥前国佐嘉庄末吉名内牛島里野田作坪壱町」の土地を竜造寺又六入道が蠣久かきひさ(現鍋島町)の地頭右衛門入道に本物返の約束で売却したことがみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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