御井郡(読み)みいぐん

日本歴史地名大系 「御井郡」の解説

御井郡
みいぐん

筑後国の北部西端に位置し、南西は三潴みづま郡、南は上妻かみつま郡、東は山本やまもと郡・竹野たけの郡、北東端は筑前国下座げざ郡、北は御原みはら郡に接し、北西は肥前国養父やぶ郡に接する。およその近世の郡域は現在の三井みい北野きたの町、同郡大刀洗たちあらい町南部、小郡市南部、久留米市中央部に相当する。古代・中世では御井・三井の表記が混用されている。

〔古代〕

和名抄」諸本とも「御井」に作り、東急本・元和古活字本は「三井」の訓を付す。観世音寺大宝四年縁起(大東急記念文庫蔵)にみえる大宝四年(七〇四)二月一一日の大宰府移案に「賀太荒野 竹志後国三井郡地」とあるのが郡名の初見。平城宮跡出土の調綿付札木簡(平城宮木簡一)には養老七年(七二三)の年紀をもつ「□(御カ)井郡調綿壱百屯」と記したものがあり、大宰府跡出土木簡(木簡研究八)には「三井郡庸米六斗」とみえる。「肥前国風土記」基肄郡条には、景行天皇が九州巡行に際して「筑紫国御井郡高羅行宮」にあって国内を遊覧したとある。「日本書紀」継体天皇二二年一一月一一日条に「大将軍物部大連麁鹿火、親ら賊の帥磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ」とみえ、物部麁鹿火が御井郡において筑紫君磐井と戦ったと伝える。延喜五年観世音寺資財帳の薗団地章(薗圃地章か)には「筑後国 (御)井郡加駄野」がみえる。後述する現久留米市の筑後国府跡やヘボノ遺跡では「三井」と記した墨書土器が発見されている。「和名抄」には管郷として節原くしはら伴太はた殖木うえき弓削ゆげ神代くましろ賀駄かだ大城おおき山家やまえの八郷が載る。御井郡は筑後国府、および国分寺国分尼寺の所在郡である。筑後国府跡については、昭和三六年(一九六一)に九州大学考古学研究室による阿弥陀あみだ遺跡の発掘調査が行われた後、同四七年に久留米市教育委員会による発掘調査が開始され、以後断続的に実施されている。こうした調査によれば、筑後国府には場所を異にする四期の遺構が認められる。第I期国庁は七世紀後半から八世紀中頃まで合川あいかわ古宮ふるごう地区に、第II期国庁は八世紀中頃から一〇世紀中頃にかけて合川町阿弥陀地区に、第III期国庁は一〇世紀中頃から一一世紀後半まで朝妻あさづま三丁野さんちようの地区に、そして第IV期国庁は一一世紀後半から一二世紀後半にかけて御井町横道よこみち地区に営まれていたことが明らかとなり、国庁所在地の地名にちなんで成立順に古宮国府・枝光えだみつ国府・朝妻国府・横道国府とよばれている。第I期国庁の所在する古宮地区では、これに先行する七世紀中頃の前身官衙の存在も想定されており、国府遺跡としては全国的にも注目される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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