御代田村
みよだむら
布川村の西、広瀬川の中流に沿い、北は山戸田村(現霊山町)、西は下小国村(現同上)、南は下糠田村。小起伏山地に位置するが、広瀬川両岸には耕地が開け、「信達一統志」に、「米穀に宜しき土地なり」とある。南北に川俣(現川俣町)に至る街道が縦貫し、集落が点在する。村名は当村に鎮座した宇賀神社の縁起「五穀を以て御代を治める」の義によるという(同書)。「伊達天正日記」のうち天正一七年(一五八九)四月二一日の野臥日記にみえる「川くたり」のうちとされ、むちな入・松山・月崎・いを内・境の目などは当地にあった在家名と考えられる。なお永禄一一年(一五六八)四月の小島(現川俣町)における相馬盛胤との戦いで、戦功のあった伊達氏の部将瀬上景康は御代田郷のうち数箇所を与えられたという(性山公治家記録)。
御代田村
みよだむら
[現在地名]郡山市田村町御代田
徳定村の南、阿武隈川東岸の平地と段丘に立地。三与田・三世田とも書く。中世は田村庄に含まれ、観応二年(一三五一)一一月二五日の吉良貞家奉書(白河証古文書)に「陸奥国田村庄三与田」とみえ、奥州管領吉良貞家が足利尊氏の命を受け、結城顕朝に勲功の賞として当地を与えている。観応三年七月、南朝方との唐久野合戦において、石河兼光は南朝方を「三世田城」まで追退ける戦功をあげている(文和二年五月日「石河兼光軍忠状」遠藤白川文書)。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に「御代田 平季秀」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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