志加奴村
しかぬむら
現鹿野町の中央やや北寄り、河内川流域の坂本・光元谷と浜村川流域の勝見谷が奥部で交わる辺りに位置する。鹿奴とも記すが、中世には鹿野の表記が多い。鹿野往来・伯耆中道の宿駅が置かれた。郷村帳類では志加奴一村で高付されているが、領内限りでは東志加奴と西志加奴の二村に分れ、村役人もそれぞれに置かれていた(藩史)。北は閉野村と宿村(現気高町)、南は小畑村、西は玉川村。集落南方の妙見山には志加奴(鹿野)某が代々居城したと伝える鹿野城跡がある。同城は戦国時代伯耆国境の交通の要所を占める城として、山名氏・尼子氏・毛利氏などの争奪の的となった。天正九年(一五八一)羽柴秀吉は亀井新十郎茲矩を鹿野城に封じ、元和三年(一六一七)茲矩の子政矩が石見国津和野(現島根県津和野町)に移封されるまで同氏の城下町として栄えた。亀井氏の移封後一時寂れたが、やがて近在の物資の集散地として復興、活況を呈した。
〔亀井氏入部以前〕
永禄六年(一五六三)閏一二月一一日付の山名宗詮等連署書状(譜録)に「鹿野」とみえ、武田高信の攻撃によって天神山城(現鳥取市)を追われた山名豊数は当地へ退いている。天正元年尼子勢が因幡に攻め入り、八月にこれを攻めた武田高信が惨敗したため、同月毛利氏は野村士悦に翌年三月までの当地在番を命じ、「鹿野内三百貫」の地を与えている(同月二三日「国司元武等連署書状」閥閲録など)。
〔亀井氏の城下町〕
天正九年鹿野城に入った亀井茲矩はさっそく城下の経営に着手したものと考えられるが、旧来の山下集落や道をどのように取込んだのか、あるいはまったく新しい町立てを行ったのかなどについては明らかではない。しかしかつて鍛冶町裏に鎮座していたという現気高町宿の志加奴神社(当時は勝島大明神)が城下建設に伴って地内比志也久目(柄杓目)に移され、さらに付替えた河内川の度重なる氾濫で現在地に再移転したと伝えられることから(鹿野小誌)、河川・往来の付替えなども行われ、町割が進められたと思われる。「拾遺鹿野故事談」などによると、侍屋敷地区は字殿町・御茶苑・堀端辺りで、北方の鉄砲屋・的場は射撃練習場とみられる。町屋地区は侍屋敷地区の周辺部を占め、妙見山北麓を東西に走る道路に沿っていた。紺屋町・上町(カンマチともよぶ)・下町・鍛冶町・大工町などの町名は現在も残されているが、ほかに呉服町・新町、さらに津山町・八日町・魚町・茶町・ノボリ町・河原町・スヤマ町・本町・油魚町などが町立てされたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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