鹿野城跡(読み)しかのじようあと

日本歴史地名大系 「鹿野城跡」の解説

鹿野城跡
しかのじようあと

[現在地名]鹿野町鹿野

鹿野の街の南、標高一五二メートルの妙見みようけん山にあり、近世には王舎おうしや城とも号した。因幡から伯耆へ向かう連絡路の要地を占め、戦国時代には「因伯為仕切之城(中略)在番事肝要」(天正元年九月二二日「毛利輝元書状」閥閲録)などと記されるように重視されて、しばしば当城をめぐる合戦が繰広げられた。天正九年(一五八一)羽柴秀吉気多けた郡一万三千八〇〇石をもって亀井茲矩を当城に封じ(のち高草郡を加増され三万八千石)妙見山麓一帯には城下が形成されている。

城の創建年代は不詳であるが、当地一帯で勢力を振るった志加奴氏代々の居城であったと伝える。「明徳記」には明徳の乱で上洛、足利勢と戦った山名中務(氏家)の若党として志賀野八郎(「後太平記」では志加奴七郎)の名がみえる。「陰徳太平記」によると天文一三年(一五四四)因幡に侵入した雲州尼子晴久によって城主「鹿野入道已下三百余人」が斬られ、鹿野城は落城したという。永禄六年(一五六三)閏一二月一一日付の山名宗詮等連署書状(譜録)に「鹿野」とみえ、武田高信の攻撃によって天神山てんじんやま(現鳥取市)を追われた山名豊数は当地へ退いた。しかし翌七年七月二二日毛利・武田・南条勢は当地の山名勢を攻撃している(同年八月二日「毛利元就感状」閥閲録など)。こののち当城は毛利方の手に帰し、同九年二月二七日吉川元春は鹿野分一八石などを山田出雲守(重正)に与えている(「吉川元春書状」同書)。同一二年六月七日小早川隆景は湯原平次(元綱)の当地在番をねぎらっているが(「小早川隆景書状」同書)、元綱は元亀元年(一五七〇)三月にはすでに当城を去っていた(同月三日「吉川元春書状」同書)

天正元年尼子勢が因幡に攻め入った。同年八月これを攻めた武田高信が惨敗したため、同月野村信濃入道(士悦)は翌年三月までの当地在番を仰せ付けられ、鹿野のうち三〇〇貫文の地を与えられている(同月二三日「国司元武等連署書状」閥閲録など)。九月になって士悦は因幡仕切の城として「鹿野古城」の普請準備を怠ることのないようにと命ぜられているが(前掲同月二二日毛利輝元書状)、同月中に尼子氏の攻撃によって高信の守る鳥取城が落城し、伯耆防備を固めるため杉原盛重・南条宗勝らに当城の普請が命ぜられている(同月二七日「吉川元春書状」久芳文書)。また一〇月には小早川隆景も因幡に出陣している(同月一三日「小早川隆景書状」閥閲録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「鹿野城跡」の解説

鹿野城跡

(鳥取県鳥取市)
伝えたいふるさと鳥取の景観100景指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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