日本歴史地名大系 「鹿野城跡」の解説
鹿野城跡
しかのじようあと
鹿野の街の南、標高一五二メートルの
城の創建年代は不詳であるが、当地一帯で勢力を振るった志加奴氏代々の居城であったと伝える。「明徳記」には明徳の乱で上洛、足利勢と戦った山名中務(氏家)の若党として志賀野八郎(「後太平記」では志加奴七郎)の名がみえる。「陰徳太平記」によると天文一三年(一五四四)因幡に侵入した雲州尼子晴久によって城主「鹿野入道已下三百余人」が斬られ、鹿野城は落城したという。永禄六年(一五六三)閏一二月一一日付の山名宗詮等連署書状(譜録)に「鹿野」とみえ、武田高信の攻撃によって
天正元年尼子勢が因幡に攻め入った。同年八月これを攻めた武田高信が惨敗したため、同月野村信濃入道(士悦)は翌年三月までの当地在番を仰せ付けられ、鹿野のうち三〇〇貫文の地を与えられている(同月二三日「国司元武等連署書状」閥閲録など)。九月になって士悦は因幡仕切の城として「鹿野古城」の普請準備を怠ることのないようにと命ぜられているが(前掲同月二二日毛利輝元書状)、同月中に尼子氏の攻撃によって高信の守る鳥取城が落城し、伯耆防備を固めるため杉原盛重・南条宗勝らに当城の普請が命ぜられている(同月二七日「吉川元春書状」久芳文書)。また一〇月には小早川隆景も因幡に出陣している(同月一三日「小早川隆景書状」閥閲録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報