志鳥村(読み)しとりむら

日本歴史地名大系 「志鳥村」の解説

志鳥村
しとりむら

[現在地名]南那須町志鳥

現南那須町の北端に位置する。集落はおもに川支流いわ川およびその支流域にあり、上・下の二郷に分れていた。西は鹿子畑かのこはた(現塩谷郡喜連川町)、東は東戸田ひがしとだ(現小川町)など。字小志鳥こしとりに小志鳥横穴群、中世の小志鳥城跡がある。「那須記」によれば、永禄九年(一五六六)神長治武内山かながじぶうちやま(現烏山町)の合戦で討死した大金豊前守の功により、三男の弥助が当地を賜ったという。江戸時代を通じて烏山藩領。慶長一七年(一六一二)石井長右衛門に当村で二〇〇石が与えられている(「成田泰之判物」石井文書)。慶安郷帳では田高五九四石余・畑高三七一石余。

志鳥村
しとりむら

[現在地名]境町志鳥

長井戸ながいど(現在は水田)西枝東方の台地に所在。四鳥しとり村とも記す。南は稲尾いなお村。西寄り中央部に長井戸沼の枝ヤトが入り、北部は平地林が多い。天文二三年(一五五四)の梅千代王丸足利義氏充行状写(野田家文書)の「先御落居之地廿五郷」のうちに「志鳥」とあり、野田左衛門大夫の支配を受けた。天正二年(一五七四)一二月二日の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)の「上幸嶋」分には「志とり 野田三郎」とみえ、同年一二月一五日の足利義氏充行状写(同文書)には

<資料は省略されています>

とあるので、野田三郎麾下の白戸越前守へ恩賞として与えられていたものと考えられる。

志鳥村
しとりむら

[現在地名]栃木市志鳥町

皆川城内みながわじようない村の南から西にかけて、晃石てるいし山の北東に延びる丘陵に挟まれて立地する。西は小野口おのぐち村。「和名抄」記載の都賀つが郡内秀文しとり郷の遺称地。「下野国誌」は秀文を委文の誤りとする。天文二三年(一五五四)一二月二四日の野田左衛門大夫宛足利義氏充行状(野田家文書)にみえる「志鳥」は当地か。また喜連川家料所記(喜連川文書)中の天正二年(一五七四)と推定される「十二月十五日御配当之知行」の条に「志鳥郷」とあり、白戸越前守に下されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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