忠臣蔵映画(読み)ちゅうしんぐらえいが

改訂新版 世界大百科事典 「忠臣蔵映画」の意味・わかりやすい解説

忠臣蔵映画 (ちゅうしんぐらえいが)

かつて映画界には〈ヒット作の企画に困れば忠臣蔵〉という言い方があったほど,忠臣蔵映画は,つくれば必ず大ヒットするドル箱とされてきた。これは明らかに〈忠臣蔵〉が国民的人気をもつゆえであるが,登場人物が多彩で,しかも人物それぞれの見せ場のあることから,各映画会社のスターの〈顔見世番組〉,いわゆるオールスター作品としてふさわしいとされたことも見逃せない。そして,オールスター大作としての忠臣蔵映画を製作できるかどうかは,映画会社の盛衰を示すバロメーターともみなされ,各社は正月と盆の稼ぎ時のほかに,さまざまな記念作品として忠臣蔵映画をつくった。これまでに映画となった〈忠臣蔵〉は,仮名手本もの,実録的なもの,赤穂義士外伝もの,変格応用もの等々,多種類にわたって数知れず,優に100本を超えると思われる。御園京平の調査(私家本《映画・忠臣蔵》1966)では,外伝ものや変格ものを除いたものだけでも,明治末期に22本,大正年間に38本,昭和に入ってから22本を数えることができる。

 最初の忠臣蔵映画は,1907年に吉沢商店がつくった《忠臣蔵五段目》であるが,これは11世片岡仁左衛門の与市兵衛・定九郎・勘平三役による歌舞伎映画であった。その後1910年,横田商会で映画スター第1号である尾上松之助の主演で《大石内蔵助一代記》がつくられ,つづいて同年,同じ横田商会が牧野省三監督,尾上松之助の浅野内匠頭・大石内蔵助・清水一角三役で,映画ではじめての〈忠臣蔵〉全通しである《忠臣蔵》をつくった。牧野省三,尾上松之助のコンビは,こののちも日活で,同社の創立記念作品《忠臣蔵》(1912),《仮名手本忠臣蔵》(1917),最初の超大作といえる《実録忠臣蔵》(1921)など,何度も〈忠臣蔵〉を映画化した。さらに尾上松之助は26年の日活大作《実録忠臣蔵》(池田富保監督)に主演し,牧野省三は日活から独立したのちもみずからのプロダクションで忠臣蔵映画をつくりつづけ,28年には畢生(ひつせい)の大作としてマキノ・プロ作品《忠魂義烈・実録忠臣蔵》を製作し,完成フィルムが火災にあったものの,焼け残りの部分を公開して絶賛を浴びた。この間,天活(天然色活動写真),国活(国際活映),帝国キネマ,松竹など,次々誕生する新会社も,こぞって,忠臣蔵映画をつくった。

 初のトーキー〈忠臣蔵〉は,32年の松竹作品《忠臣蔵》で,衣笠貞之助監督,阪東妻三郎の大石内蔵助,林長二郎(のち長谷川一夫)の浅野内匠頭などのオールスター・キャストである。34年には日活が,伊藤大輔監督,大河内伝次郎の大石内蔵助,片岡千恵蔵の浅野内匠頭で,トーキー《忠臣蔵》をつくった。こうして各社のオールスター作品がつづくなか,真山青果原作で前進座などの演劇人と松竹スターが出演した溝口健二監督《元禄忠臣蔵》二部作(1941-42)が,芸術性の高いものとして注目を集め,この作品以降,第2次世界大戦中には本格的な忠臣蔵映画は姿を消した。

 戦後,忠臣蔵映画は早くから企画されたが,GHQ(連合軍総司令部)の時代劇規制のため実現せず,52年,〈忠臣蔵〉の題名を用いず,仇討を描かないで赤穂浪士による政治批判のドラマにするという形で,はじめて東映作品《赤穂城》二部作が,萩原遼監督,片岡千恵蔵の浅野内匠頭・大石内蔵助二役により,つくられた。そして54年の松竹作品《忠臣蔵》(大曾根辰夫監督)で〈忠臣蔵〉という題名が復活した。忠臣蔵映画の最初のカラー作品は56年の東映作品《赤穂浪士》二部作(松田定次監督),最初のカラー・ワイド作品は57年の松竹作品《大忠臣蔵》(大曾根辰保監督)である。以後,東映,松竹,大映,東宝によるオールスター大作がつづき,78年には東映作品《赤穂城断絶》が,深作欣二監督,萬屋錦之介の大石内蔵助でつくられた。これらのほか,赤穂義士外伝ものは枚挙にいとまがないほどで,とりわけ堀部安兵衛を主人公にした作品が数多い。

 また,変格ものとして,《忍術忠臣蔵》(1937),《女忠臣蔵》(1940),《浪曲忠臣蔵》(1943),《珍説忠臣蔵》(1953),《忍法忠臣蔵》(1965)などがあり,〈忠臣蔵〉を他の世界に置き換えた応用作品として,《俠客忠臣蔵》(1932),《学生忠臣蔵》(1933),《ジャズ忠臣蔵》(1937),《サラリーマン忠臣蔵》(1960),《長脇差忠臣蔵》(1962),《ギャング忠臣蔵》(1963),《わんわん忠臣蔵》(1963,動画)などがある。
仮名手本忠臣蔵
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の忠臣蔵映画の言及

【牧野省三】より

…さらには監督の松田定次(さだつぐ)(1906‐ )も省三の子(茶屋・滝の家の女将との子)として知られる。 牧野省三がもっとも情熱を注いだ作品は《忠臣蔵》で(計6本撮っている),日本映画の一つのジャンルとすらなった〈忠臣蔵映画〉の流れをつくったのも牧野省三の功績であり,松之助が浅野内匠頭,大石内蔵助,清水一角の三役を演じた初の長編《忠臣蔵》(1910‐12)をはじめ,省三が日活から独立して牧野教育映画撮影所で撮った最初の長編映画《実録忠臣蔵》(1922)は,〈歌舞伎型から写真劇への脱皮〉によって時代劇革新の第一歩を踏み出したと評価される(田中純一郎《日本映画発達史》)。そして,1928年,みずからの生誕50年記念映画として〈畢生(ひつせい)の大作〉と自負した《忠魂義烈・実録忠臣蔵》が一部焼失して不完全なまま公開され,ヒットはしたものの,これを最後に第一線から退き,翌29年9月に病死した。…

※「忠臣蔵映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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