片岡千恵蔵(読み)カタオカチエゾウ

デジタル大辞泉 「片岡千恵蔵」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐ちえぞう〔かたをかちヱザウ〕【片岡千恵蔵】

[1903~1983]映画俳優本名、植木正義。群馬の生まれ。昭和の初め、伊丹万作稲垣浩とともに千恵蔵プロを設立し、以後時代劇を中心に数多くの映画に主演した。代表作に「国士無双」「宮本武蔵」「血槍富士」など。

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精選版 日本国語大辞典 「片岡千恵蔵」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐ちえぞう【片岡千恵蔵】

  1. 映画俳優。群馬県生まれ。本名植木正義。時代劇の二枚目俳優として活躍。出演作品に「忠臣蔵」「赤西蠣太」「宮本武蔵」「血槍富士」など。明治三六~昭和五八年(一九〇三‐八三

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改訂新版 世界大百科事典 「片岡千恵蔵」の意味・わかりやすい解説

片岡千恵蔵 (かたおかちえぞう)
生没年:1904-83(明治37-昭和58)

映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。12歳で片岡少年劇に入る。1923年,小笠原映画研究所作品《三色すみれ》に映画初出演したが,映画は未公開に終わったらしい。その後,直木三十五から牧野省三に紹介され,27年,マキノ・プロに入社,片岡千恵蔵の名のもとに連続時代劇《万花地獄》で本格的に映画界へデビュー,時代劇スターとして脚光を浴びるが,28年,マキノを退社,片岡千恵蔵プロダクション千恵プロ)を発足させた。最初の作品《天下太平記》は,脚本伊丹万作,監督稲垣浩で,ともに伊藤大輔から紹介された無名の新人である。当時,悲壮美をうたった時代劇が多い中,活気あふるる明朗時代劇として輝き,29年,千恵プロは京都嵯峨野にみずからのスタジオを設立,はなばなしい活躍期に入った。稲垣浩監督《番場の忠太郎・瞼の母》《弥太郎笠》,伊丹万作監督《国士無双》《刺青奇偶》《赤西蠣太》,マキノ正博監督《白夜の饗宴》,伊藤大輔監督《堀田隼人》,山中貞雄監督《風流活人剣》等々,数々のヒット作,名作を含め,10年間に92本の作品を生み出し,映画史に大きな足跡を残した。37年,千恵プロは解散,スタッフ,キャスト,従業員全員を伴って日活へ入社。マキノ正博監督《江戸の花和尚》,稲垣浩監督《宮本武蔵》三部作などに主演。戦中戦後の大映・東横時代を経て,51年,東映の設立に参加,東映の重鎮スターとして活躍した。〈遠山金四郎〉シリーズ,渡辺邦男および内田吐夢の監督で2度もシリーズ化された《大菩薩峠》(1953および1957-59),戦後初の《赤穂城》を含む〈忠臣蔵〉映画,そのほか〈新撰組〉もの,オールスター任俠時代劇,内田吐夢監督と組んだ《血槍富士》(1955),《黒田騒動》(1956)等々の時代劇のほか,大映時代の《七つの顔》(1947)にはじまる〈多羅尾伴内〉シリーズ,〈金田一耕助〉シリーズ,《奴の拳銃は地獄だぜ》(1958)などのギャング映画と,現代劇も数多く,その千変万化ぶりは東映映画の魅力を象徴したといってよい。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「片岡千恵蔵」の解説

片岡 千恵蔵
カタオカ チエゾウ


職業
俳優

本名
植木 正義(ウエキ マサヨシ)

生年月日
明治37年 1月20日

出生地
群馬県 新田郡藪塚(太田市)

出身地
東京・麻布箪笥町

経歴
歌舞伎俳優からサイレント時代の映画界に入った時代劇の大スター。昭和3年に片岡千恵蔵プロダクションを起こし、解散までの10年間に「天下太平記」はじめ「赤西蠣太」「一本刀土表入り」など多くの傑作を生む。戦後は東映の「七つの顔」など“多羅尾伴内”シリーズや「いれずみ判官」など“判官物”シリーズで活躍、「血槍富士」「大菩薩峠」などで円熟技を見せた。出演映画は約400本。東映では創設当時からの重役俳優だった。

受賞
紫綬褒章〔昭和46年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和52年〕

没年月日
昭和58年 3月31日 (1983年)

伝記
木久扇のチャンバラスターうんちく塾映画録音技師ひとすじに生きて―大映京都六十年ライバルを探せ!―対立構造のすすめ映画道楽多羅尾伴内―七つの顔の男キクゾーのチャンバラ大全チャンバラ黄金時代 時代劇スター七剣聖―石割平コレクション大映チャンバラ黄金時代 十一人の剣豪―石割平コレクション活動大写真始末記千恵プロ時代―片岡千恵蔵・伊丹万作・稲垣浩 洒脱にエンターテイメント日本のアクション映画―裕次郎から雷蔵まで殺陣―チャンバラ映画史千恵蔵一代男優女優の昭和誌映画三国志―小説東映日本映画史の創出俳優(スター)の美学千恵蔵一代 林家 木久扇 文・絵林 土太郎 著村松 友視 著鈴木 敏夫 著関 貞三 著,林家 木久蔵 編林家 木久蔵 著石割 平 編・著,円尾 敏郎 編石割 平 編・著,円尾 敏郎 編わか こうじ 著冨田 美香 著西脇 英夫 著永田 哲朗 著田山 力哉 著はが やすし 著大下 英治 著冨士田 元彦 著佐藤 忠男 著田山 力哉 著(発行元 小池書院草思社日本放送出版協会ぴあワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版彩流社フィルムアート社社会思想社社会思想社社会思想社人間の科学社徳間書店五柳書院未来社社会思想社 ’07’07’05’05’05’01’01’00’97’97’96’93’92’92’90’90’87’87発行)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「片岡千恵蔵」の意味・わかりやすい解説

片岡千恵蔵
かたおかちえぞう
(1903―1983)

映画俳優。本名植木正義。群馬県生まれ。9歳で11世片岡仁左衛門(にざえもん)主宰の片岡少年劇に入り、のち片岡千栄蔵の芸名で歌舞伎(かぶき)俳優となる。1927年(昭和2)マキノプロへ入社、千恵蔵と改名して『万花地獄』でデビュー、以来美男スターとして人気を獲得した。翌年、片岡千恵蔵プロダクションを創設(1937解散)、伊丹万作(いたみまんさく)、稲垣浩(ひろし)らの監督と組み、『瞼(まぶた)の母』『一本刀土俵入』(1931)、『国士無双』(1932)、『赤西蠣太(かきた)』(1936)など、時代劇映画史に残る佳作を生んだ。第二次世界大戦後は、『七つの顔』に始まる「多羅尾伴内(たらおばんない)」シリーズ、『いれずみ判官』に始まる「判官」シリーズなど娯楽映画に活躍する一方、内田吐夢(とむ)監督の『血槍(ちやり)富士』(1955)、『大菩薩(だいぼさつ)峠』三部作(1957~59)などに風格ある演技をみせた。

[長崎 一]

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百科事典マイペディア 「片岡千恵蔵」の意味・わかりやすい解説

片岡千恵蔵【かたおかちえぞう】

映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。1927年に片岡少年劇から映画界入り。翌年片岡千恵蔵プロダクションを設立,伊丹万作稲垣浩監督とトリオを組み,新鮮な時代劇スターとなる。戦後は東映で活躍。代表作に伊丹監督《赤西蠣太》(1936年),稲垣監督《宮本武蔵》三部作(1940年―1941年),内田吐夢監督《血槍富士》(1955年)等がある。
→関連項目嵐寛寿郎時代劇映画牧野省三

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20世紀日本人名事典 「片岡千恵蔵」の解説

片岡 千恵蔵
カタオカ チエゾウ

昭和期の俳優



生年
明治37(1904)年1月20日

没年
昭和58(1983)年3月31日

出生地
群馬県新田郡藪塚(現・藪塚町大字)

出身地
東京・麻布簞笥町

本名
植木 正義(ウエキ マサヨシ)

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和46年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和52年〕

経歴
歌舞伎役者からサイレント時代の映画界に入った時代劇の大スター。昭和3年に片岡千恵蔵プロダクションを起こし、解散までの10年間に「天下太平記」はじめ「赤西蠣太」「一本刀土表入り」など多くの傑作を生む。戦後は東映の「七つの顔」など“多羅尾伴内”シリーズや「いれずみ判官」など“判官物”シリーズで活躍、「血槍富士」「大菩薩峠」などで円熟技を見せた。出演映画は約400本。東映では創設当時からの重役俳優だった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「片岡千恵蔵」の意味・わかりやすい解説

片岡千恵蔵
かたおかちえぞう

[生]1903.1.20. 群馬
[没]1983.3.31. 東京
映画俳優。本名植木正義。片岡少年劇を経て 1927年マキノプロに入社。『萬花地獄』などに出演,28年千恵蔵プロを設立。伊丹万作,稲垣浩らとトリオを組み,時代劇の人気スターとなった。その後日活,大映を経て東映に移った。代表作『赤西蠣太』 (1936) ,『宮本武蔵』 (3部作,40) ,『血槍富士』 (55) ,『花の吉原百人斬り』 (60) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「片岡千恵蔵」の解説

片岡千恵蔵 かたおか-ちえぞう

1904-1983 昭和時代の映画俳優。
明治37年1月20日生まれ。歌舞伎役者から映画界にはいり,片岡千恵蔵プロを創設,「赤西蠣太(かきた)」などを製作・主演。戦後は東映のスターとして「多羅尾伴内(たらお-ばんない)」「判官」シリーズなど娯楽映画に出演する一方,「血槍富士」「大菩薩峠」などに円熟した演技をみせた。昭和58年3月31日死去。79歳。群馬県出身。本名は植木正義。

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367日誕生日大事典 「片岡千恵蔵」の解説

片岡 千恵蔵 (かたおか ちえぞう)

生年月日:1904年1月20日
昭和時代の映画俳優
1983年没

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世界大百科事典(旧版)内の片岡千恵蔵の言及

【活劇映画】より

…やがて第2次世界大戦の進展とともに,映画興行も制限され,外国活劇のヒットは見られたものの,日本の活劇は,わずかに黒沢明の柔道映画《姿三四郎》(1943),《続・姿三四郎》(1945)を例外として,戦争活劇が主体になっていった。
[戦後の活劇]
 戦後の活劇の隆盛をもたらしたのは新会社,東映で,前身の東横時代から,占領軍による時代劇規制のもと,時代劇スターが現代劇に出演,片岡千恵蔵の《多羅尾伴内》シリーズ(1947‐60)や《にっぽんGメン》(1948),市川右太衛門の《ジルバの鉄》(1950),両者共演の《難船崎の決闘》(1950)などがつくられ,これらの探偵活劇や暗黒街活劇は〈時代劇王国〉東映のもう一つの顔になった。1950年代から60年代にかけて,探偵活劇の流れからは《警視庁物語》シリーズ(1955‐64)や《点と線》(1958),《黄色い風土》(1961)などの犯罪・推理ドラマが生まれ,暗黒街活劇の系譜としては,片岡千恵蔵の《奴の拳銃は地獄だぜ》(1958),鶴田浩二主演《花と嵐とギャング》(1961),《誇り高き挑戦》(1962),高倉健主演《恋と太陽とギャング》(1962),《暴力街》《恐喝》(ともに1963)などがつくられ,小林恒夫,石井輝男,深作欣二らの活劇監督が輩出した。…

【大菩薩峠】より

… 最初の映画化は日活の《大菩薩峠》二部作(1935‐36)で,監督は稲垣浩(第1部には山中貞雄と荒井良平が応援監督),机竜之助には大河内伝次郎,お浜には入江たか子が扮した。第2回は東映の《大菩薩峠》三部作(1953)で,監督は渡辺邦男,机竜之助を片岡千恵蔵,お浜・お豊の二役を三浦光子が演じた。第3回は同じく東映の《大菩薩峠》三部作(1957‐59)で,監督は内田吐夢(とむ),机竜之助を前作と同じ片岡千恵蔵,お浜・お豊の二役を長谷川裕見子が演じた。…

【血槍富士】より

…大井川の川止めにあった宿場を舞台に,さまざまな人々の姿が,大金を所持する者や挙動不審の者をめぐる泥棒騒ぎ,女衒(ぜげん)に売られていく娘の身の上などの数々の挿話を通じていわゆる〈グランド・ホテル形式〉で描かれ,そのなかで,若殿を殺された槍持ちの権八が数名の侍を相手に闘い,仇討を果たすに至るさまをつづる。抑揚のきいた演出と権八役の片岡千恵蔵の名演とによって,前半,酒乱ながらも人のいい若殿に対する権八の思いやりがあたたかく描き出され,ラストは一転,えんえん長い凄絶(せいぜつ)な死闘のなか,槍をふるって闘う権八の憤怒が,下層の人間,追いつめられた者のエネルギーの爆発としてくりひろげられる。井上金太郎原作・脚色・監督,月形竜之介主演《道中秘記》(1927)の映画化で,第2次世界大戦中から9年間の中国生活を経て,1953年に帰国した内田吐夢の戦後第1作。…

※「片岡千恵蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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