大河内伝次郎(読み)オオコウチデンジロウ

デジタル大辞泉 「大河内伝次郎」の意味・読み・例文・類語

おおこうち‐でんじろう〔おほかふちデンジラウ〕【大河内伝次郎】

[1898~1962]映画俳優。本名は大辺男おおべますお。福岡の生まれ。伊藤大輔いとうだいすけ監督と組んで、昭和初期の時代劇映画活躍した。代表作は「忠次旅日記」(三部作)「丹下左膳」「続大岡政談・魔像篇」など。

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精選版 日本国語大辞典 「大河内伝次郎」の意味・読み・例文・類語

おおこうち‐でんじろう【大河内伝次郎】

  1. 映画俳優。本名大辺男(おおべますお)。福岡県出身。大正一五年(一九二六)、新国劇の俳優から映画へ移る。時代劇映画黄金時代の代表的俳優として活躍。代表作「忠治旅日記」「丹下左膳」。明治三一~昭和三七年(一八九八‐一九六二

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「大河内伝次郎」の解説

大河内 伝次郎
オオコウチ デンジロウ


職業
俳優

本名
大辺 男(オオベ マスオ)

別名
筆名=西方 弥陀六,別名=正親町 勇,室町 次郎

生年月日
明治31年 2月5日

出生地
福岡県 上毛郡大河内村(豊前市大河内)

学歴
大阪商業学校〔大正7年〕卒

経歴
大正7年から会社勤めの後、倉橋仙太郎の主宰する文化村新民衆劇学校に入り、第二新国劇の舞台で活躍したが、14年衣笠貞之助の「弥陀ケ原の殺陣」で映画俳優となる。15年日活大将軍撮影所に入社。伊藤大輔監督の「長恨」に大河内伝二郎の名で主演。宣伝部が伝次郎と誤り書いて、そのまま伝次郎を通す。昭和2年伊藤監督とのコンビで「忠次旅日記」3部作に主演しスターの座を獲得。ついで3年に「血煙高田の馬場」「新版大岡政談」(3部作)などに主演し、悲愴感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で人気を不動のものとする。4年敬愛する沢田正二郎急死で一時、新国劇の舞台に立ったが、7年トーキー映画「上海」で現代劇に進出。8年伊藤の「丹下左膳・第一篇」で「シェイは丹下、名はシャゼン」という独特の台詞がファンをわかせ、ニヒルな主人公・左膳を生涯の当たり役とした。12年JOスタヂオ(のちの東宝)に移り、「閣下」(15年)、「ハワイ・マレー沖海戦」(17年)、「姿三四郎」(18年)などの名作に好演。戦後は新東宝、大映、東映と転じ、主役・脇役を自在にこなし、渋い演技をみせた。戦後の代表作に「わが青春に悔なし」(21年)、「生きている画像」(23年)、「盤獄江戸へ行く」「紫頭巾」「小原庄助さん」(24年)、「虎の尾を踏む男達」(製作20年 公開25年)「われ幻の魚を見たり」(25年)などがある。生涯をかけて築いた嵐山の山荘は、のちに京都洛西の新名所となった。

没年月日
昭和37年 7月18日 (1962年)

伝記
活動屋伝説木久扇のチャンバラスターうんちく塾近代映画スタアの花咲く昭和時代 昭和20年〜30年編―近代映画社創立62周年記念出版 復刻・保存版資料が語る丹下左膳の映画史―大河内伝次郎から豊川悦司までキクゾーのチャンバラ大全チャンバラ黄金時代 時代劇スター七剣聖―石割平コレクション大映チャンバラ黄金時代 十一人の剣豪―石割平コレクション殺陣―チャンバラ映画史大河内伝次郎―人と作品 その魅力のすべて東宝行進曲―私の撮影所宣伝部50年 野村 盛秋 著林家 木久扇 文・絵Kindai特別編集 編田中 照禾 著林家 木久蔵 著石割 平 編・著,円尾 敏郎 編石割 平 編・著,円尾 敏郎 編永田 哲朗 著梶田 章 著斉藤 忠夫 著(発行元 文芸社小池書院近代映画社川喜多コーポレーション,展望社〔発売〕ワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版社会思想社朝日ソノラマ平凡社 ’08’07’06’04’01’01’00’93’92’87発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「大河内伝次郎」の意味・わかりやすい解説

大河内伝次郎 (おおこうちでんじろう)
生没年:1898-1962(明治31-昭和37)

映画俳優。日本映画史上屈指の名作《忠次旅日記》三部作(1927)で悲運の国定忠治を好演,激烈さと暗さに満ちた風貌と演技で妖気のような魅力を放って,当時の暗い世相に訴え,人気を博した。白塗り美男という従来の時代劇スターの定型が,ここで破られたといえる。この作品の伊藤大輔監督とは,主演第1作《長恨》(1926)での決定的な出会い以降,コンビで《血煙高田馬場》《素浪人忠弥》《興亡新撰組》《御誂次郎吉格子》などの名作を生んだ。その多くは撮影が唐沢弘光,共演が伏見直江である。その中の1作《新版大岡政談》(1928)では,大岡越前守とともに片目片腕の虚無的な剣客丹下左膳を二役で演じたが,左膳役がとりわけ人気を呼んで,作品はシリーズ化され,トーキー作品《丹下左膳》(1933)では〈シェイは丹下,名はシャジェン〉というせりふ回しが有名となり,以後,1950年代まで繰り返し演じた。芸名は生地の福岡県上毛郡大河内村に由来する。本名は大辺男(ますお)。大阪商業学校を卒業後,会社勤めをしたが,倉橋仙太郎の第二新国劇に参加,25年,《若き日の忠次・弥陀ヶ原の殺陣》における目明し役で映画に初出演した。26年,日活へ入社,以来12年間に約100本の映画に出演し,尾上松之助に次ぐ日活時代劇の大スターといわれた。その間のおもな作品には,前記のほか,内田吐夢監督《仇討選手》,山中貞雄監督《盤嶽の一生》《鼠小僧次郎吉》,稲垣浩監督《大菩薩峠》などがある。魁偉(かいい)な容貌で悲劇的人物を演ずることが多く,走るシーンの迫力が名高いが,一転して瓢逸(ひよういつ)な役柄をも好演した。37年,日活から東宝へ移り,《ハワイ・マレー沖海戦》《わが青春に悔なし》などの現代劇にも出演し,46年の東宝争議の際には長谷川一夫らと〈十人の旗の会〉を結成,翌年の新東宝誕生のきっかけとなった。さらに,大映,東映と,各社を転々とするなか,無数の作品に出演し,時代劇の渋みのある名脇役として死の前年まで活躍した。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大河内伝次郎」の意味・わかりやすい解説

大河内伝次郎
おおこうちでんじろう
(1898―1962)

映画俳優。本名大邊男(おおべますお)。福岡県生まれ。劇作家を志して新国劇文芸部に入ったが、のち俳優に転向し、1926年(大正15)日活へ入社した。伊藤大輔(だいすけ)監督に認められて『長恨(ちょうこん)』(1926)でデビュー。以来同監督の『忠次(ちゅうじ)旅日記』三部作(1927)、『血煙(ちけむり)高田馬場』(1928)などに主演、重厚な顔だちとまじめな演技で人気スターとなる。『新版大岡政談』(1928)で演じた丹下左膳(たんげさぜん)は彼の当り役となった。トーキー以後は訛(なま)りのある独得の発声が逆の魅力となり、現代劇にも重厚な演技をみせた。晩年に造営した京都小倉山(おぐらやま)の山荘は、大河内山荘として洛西(らくせい)の名園となっている。

[長崎 一]

『富士正晴著『大河内伝次郎』(中公文庫)』

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20世紀日本人名事典 「大河内伝次郎」の解説

大河内 伝次郎
オオコウチ デンジロウ

大正・昭和期の俳優



生年
明治31(1898)年2月5日

没年
昭和37(1962)年7月18日

出生地
福岡県上毛郡大河内村(現・豊前市大河内)

本名
大辺 男(オオベ マスオ)

別名
筆名=西方 弥,別名=正親町 勇,室町 次郎

学歴〔年〕
大阪商業学校〔大正7年〕卒

経歴
大正7年から会社勤めの後、倉橋仙太郎の主宰する文化村新民衆劇学校に入り、第二新国劇の舞台で活躍したが、14年衣笠貞之助の「弥陀ケ原の殺陣」で映画俳優となる。15年日活大将軍撮影所に入社。伊藤大輔監督の「長恨」に大河内伝二郎の名で主演。宣伝部が伝次郎と誤り書いて、そのまま伝次郎を通す。昭和2年伊藤の「忠次旅日記」3部作に主演しスターの座を獲得。3年に「新版大岡政談」次いで「血煙高田馬場」に出演。同年敬愛する沢田正二郎の急死で一時、新国劇の舞台に立ったが、7年トーキー映画「上海」で現代劇に進出。8年伊藤の「丹下左膳・第一篇」で「シェイは丹下、名はシャゼン」という独特の台詞がファンをわかせた。12年東宝に移り「武道千一夜」、17年「ハワイ・マレー沖海戦」、18年「姿三四郎」、戦後「わが青春に悔なし」「小原庄助さん」などの作品がある。また嵐寛寿郎との共演「盤嶽江戸へ行く」、阪妻と共演の「紫頭巾」なども代表作となっている。

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百科事典マイペディア 「大河内伝次郎」の意味・わかりやすい解説

大河内伝次郎【おおこうちでんじろう】

映画俳優。本名大辺男(ますお)。福岡生れ。新国劇俳優から1926年映画界入り,伊藤大輔の《長恨》(1926年)や《忠次旅日記》(1927年)で時代劇スターとなる。独特なマスクと科白(せりふ)回しで人気を博した。当り役は《丹下左膳》(1933年)。
→関連項目時代劇映画

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大河内伝次郎」の解説

大河内伝次郎 おおこうち-でんじろう

1898-1962 大正-昭和時代の映画俳優。
明治31年2月5日生まれ。新国劇をへて大正15年日活に入社,伊藤大輔監督とのコンビで「長恨」「忠次旅日記」に主演し,一躍時代劇スターとなる。「丹下左膳」の左膳が当たり役。独特の台詞まわしに人気があり,戦中戦後は現代劇でも好演した。昭和37年7月18日死去。64歳。福岡県出身。大阪商業卒。本名は大辺男(おおべ-ますお)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大河内伝次郎」の意味・わかりやすい解説

大河内伝次郎
おおこうちでんじろう

[生]1898.3.5. 福岡
[没]1962.7.18. 京都
映画俳優。本名大辺男 (ますお) 。最初新国劇の俳優であったが,1926年日活に入社,『水戸黄門』でデビュー。名作『長恨』 (1926) や『忠次旅日記』 (3部作,27) で時代劇スターの座を確立。特異なエロキューションで人気があった。当り役は『丹下左膳』 (33) の左膳。

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367日誕生日大事典 「大河内伝次郎」の解説

大河内 伝次郎 (おおこうち でんじろう)

生年月日:1898年2月5日
大正時代;昭和時代の俳優
1962年没

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世界大百科事典(旧版)内の大河内伝次郎の言及

【時代劇映画】より

…そして尾上松之助の死後,河部五郎を後継スターとして時代劇を量産するうち,まもなく日活が時代劇における決定的な大変革をもたらした。すなわち,〈時代劇〉の呼称を生み出した伊藤大輔がみずからの脚本,監督のもと,《長恨》に続いて新スター・大河内伝次郎と組んだ《忠次旅日記》三部作(1927)の出現である。この作品は,あくまで時代劇ならではの手法を駆使して1人の無法者の流転と敗残の姿を描きつつ,現代的ともいえる人間の感情をなまなましく表現して,時代劇を超える時代劇として絶賛され,以後,日本映画史上の最高傑作の一つとみなされている。…

【大菩薩峠】より

…【尾崎 秀樹】
[映画]
 妖剣をふるう盲目の剣客机竜之助の特異な人物像,彼をめぐる多彩な登場人物の流転,波瀾万丈の筋立てなど,あらゆる点で時代劇映画の魅惑をそなえているところから,《大菩薩峠》はこれまでに5度も(本数にして12本)映画化されている。 最初の映画化は日活の《大菩薩峠》二部作(1935‐36)で,監督は稲垣浩(第1部には山中貞雄と荒井良平が応援監督),机竜之助には大河内伝次郎,お浜には入江たか子が扮した。第2回は東映の《大菩薩峠》三部作(1953)で,監督は渡辺邦男,机竜之助を片岡千恵蔵,お浜・お豊の二役を三浦光子が演じた。…

【丹下左膳】より

…隻眼隻手の超人的怪剣士・丹下左膳が,スクリーン上に初めて登場したのは1928年5月のことである。原作は林不忘(ふぼう)の《大岡政談・鈴川源十郎の巻》で,この映画化が3社競作となったため,日活版の大河内伝次郎,東亜キネマ版の団徳麿,マキノ版の嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)と,同時に3人の丹下左膳が出現した。3本の映画はいずれも《新版大岡政談》という題名で,監督は日活版が伊藤大輔,東亜キネマ版が広瀬五郎,マキノ版が二川文太郎である。…

【忠次旅日記】より

…〈第三部御用篇〉は,伊藤大輔が唐沢弘光カメラマンと組み,〈移動大好き〉と呼ばれて時代劇のスタイルに新風を吹き込むことになる名コンビの第1作である。 上州の博徒国定忠次(大河内伝次郎)が,役人に追われて流浪し,周囲の人間に裏切られ,落ちていく悲劇を描く。その底に流れているのは権力に対する反抗の思想で,忠次が命をかけてたたかう相手は御用ちょうちんに象徴される権力である。…

【忠臣蔵映画】より

… 初のトーキー〈忠臣蔵〉は,32年の松竹作品《忠臣蔵》で,衣笠貞之助監督,阪東妻三郎の大石内蔵助,林長二郎(のち長谷川一夫)の浅野内匠頭などのオールスター・キャストである。34年には日活が,伊藤大輔監督,大河内伝次郎の大石内蔵助,片岡千恵蔵の浅野内匠頭で,トーキー《忠臣蔵》をつくった。こうして各社のオールスター作品がつづくなか,真山青果原作で前進座などの演劇人と松竹スターが出演した溝口健二監督《元禄忠臣蔵》二部作(1941‐42)が,芸術性の高いものとして注目を集め,この作品以降,第2次世界大戦中には本格的な忠臣蔵映画は姿を消した。…

※「大河内伝次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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