戯曲。歴史劇。10部作。真山青果作。1934年2月東京歌舞伎座で《大石最後の一日》が,2世市川左団次によって初演された。これが好評で,翌年1月連作の第1編として《江戸城の刃傷》《第二の使者》を一挙に上演してから40年1月の《御浜御殿》まで,左団次一座が演じた。以後《泉岳寺》を41年11月2世市川猿之助(のちの猿翁)が上演した。41年から3年間にわたり前進座が連続上演し,また溝口健二監督によって映画化(前編1941,後編1942)もされている。《江戸城の刃傷》(2幕3場),《第二の使者》(1幕),《最後の大評定》(序編と6場),《伏見撞木(しゆもく)町》(2幕3場),《御浜御殿綱豊卿》(3幕5場),《南部坂雪の別れ》(2幕4場),《吉良屋敷裏門》(1幕3場),《泉岳寺》(4場),《仙石屋敷》(2幕4場),《大石最後の一日》(2幕4場)にわかれている。赤穂浪士の復讐事件を扱った長編戯曲で,歌舞伎の代表作《仮名手本忠臣蔵》とならんで,忠臣蔵劇化作品の中で二大巨峰といわれている。《江戸城の刃傷》は浅野内匠頭の刃傷とお家断絶,《第二の使者》と《最後の大評定》は藩の崩壊を前に度を失う藩士と城を明け渡した大石の決意,《伏見撞木町》は復讐かお家再興かに苦慮し,それをまぎらわすために,遊蕩に日を送る大石の孤独感,《御浜御殿綱豊卿》は復讐の倫理をめぐる甲府侯徳川綱豊と富森助右衛門の対決,《南部坂雪の別れ》は瑶泉院と大石の主従の別れ,《吉良屋敷裏門》は本懐をとげた四十七士の心境,《泉岳寺》は脱落者高田郡兵衛の悔恨と墓前での報告。《仙石屋敷》は大目付仙石伯耆守屋敷における取調べと大石の堂々たる所信披瀝,《大石最後の一日》は細川家お預けの十七士の切腹当日の日常生活と,磯貝十郎左衛門とおみのの愛を描いている。従来の赤穂事件をテーマとした戯曲が事件の裏話やフィクションを積み重ねる劇的構成になっているのに反して,この作品は事件を真正面から見据えながら,その歴史的な意味を〈元禄時代〉という社会的視野の中でドラマ化したところにその独自性と新しさがある。青果は周密な資料調査によって地名,人名はいうにおよばず,経済,社会,風俗,習慣,言語,その時代の人々の情感にまでせまっている。上は次代将軍綱豊から末は名もなき町人まで複雑な現実と格闘しているいきいきとした人間像を描いているが,その中心をなすものは情の限り,理の限りをつくし,気力の極みまで使いきったであろう大石内蔵助の複雑な性格,心理である。それぞれの人物の奥底にあるものが強烈に描かれるばかりでなく,その人物が呼吸している時代相まで投影されているところにこの戯曲の芸術的魅力がある。緊密にして雄大な構成,深刻な心理追究,論理的にたたみこむ会話の迫力と重み,これが観客に深い感動を与えずにはおかない。《元禄忠臣蔵》は青果の業績の集大成ともいうべき代表作である。
→忠臣蔵物
執筆者:真山 美保
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真山青果(まやませいか)の戯曲。全10編よりなる連作史劇。1934年(昭和9)2月に2世市川左団次一座が歌舞伎(かぶき)座で初演した最終編にあたる『大石最後の一日』が好評のため、松竹社長大谷(おおたに)竹次郎と主演の左団次の勧めで、青果は赤穂(あこう)義士の事件を改めて全編書き下ろすことになり、『江戸城の刃傷(にんじょう)』『第二の使者』『最後の大評定』(1935)以下、発表は前後したが『伏見撞木町(ふしみしゅもくまち)』『御浜御殿綱豊卿(つなとよきょう)』『南部坂雪の別れ』『吉良(きら)屋敷裏門』『泉岳寺』『仙石屋敷』と書き継がれ、最後に発表された『泉岳寺』は左団次没後の41年11月の初演であった。浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷直後から、大石内蔵助(くらのすけ)ら赤穂浪士の苦心のすえの吉良上野介(こうずけのすけ)への仇討(あだうち)と、復讐(ふくしゅう)を遂げた46人の切腹当日までを、武士の至誠を中心主題として描いた。雄大な構想と綿密な考証をもとに、巧みな性格描写で人物をとらえた青果史劇の代表作。『大石最後の一日』と、甲府宰相綱豊(6代将軍家宣(いえのぶ))と浪士の一人富森助右衛門(すけえもん)の復讐の倫理をめぐっての対決を描いた『御浜御殿綱豊卿』(1940)はよく上演される。前進座の出演で溝口健二監督により映画化(前後編二部作、1941~42)された。
[藤木宏幸]
『『元禄忠臣蔵』全2冊(岩波文庫)』
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…34年には日活が,伊藤大輔監督,大河内伝次郎の大石内蔵助,片岡千恵蔵の浅野内匠頭で,トーキー《忠臣蔵》をつくった。こうして各社のオールスター作品がつづくなか,真山青果原作で前進座などの演劇人と松竹スターが出演した溝口健二監督《元禄忠臣蔵》二部作(1941‐42)が,芸術性の高いものとして注目を集め,この作品以降,第2次世界大戦中には本格的な忠臣蔵映画は姿を消した。 戦後,忠臣蔵映画は早くから企画されたが,GHQ(連合軍総司令部)の時代劇規制のため実現せず,52年,〈忠臣蔵〉の題名を用いず,仇討を描かないで赤穂浪士による政治批判のドラマにするという形で,はじめて東映作品《赤穂城》二部作が,萩原遼監督,片岡千恵蔵の浅野内匠頭・大石内蔵助二役により,つくられた。…
…これに次いで名高いのは《太平記忠臣講釈》(1766年10月竹本座)で,以後の浪士劇は,何らかの意味で,この両作の影響下に置かれている。代表的なものとしては,人形浄瑠璃に《忠臣後日噺》(1772年4月大坂北堀江市ノ側芝居),《いろは蔵三組盃》(1773年7月大坂北新地芝居),《忠臣伊呂波実記》(1775年7月江戸肥前座),《本蔵下屋敷》(1878年4月大阪大江橋席)などがあり,歌舞伎には《義臣伝読切講釈》(《忠臣連理廼鉢植》,1788年(天明8)3月大坂北堀江市ノ側芝居),《いろは仮名四十七訓(もじ)》(弥作の鎌腹,1791年9月大坂角の芝居),《裏表忠臣蔵》(蜂の巣の平右衛門,落人,宅兵衛上使,1833年3月江戸河原崎座),《仮名手本硯高嶋》(赤垣源蔵徳利の別れ,1858年5月江戸市村座),《忠臣蔵後日建前》(女定九郎,1865年閏5月江戸中村座),《稽古筆七いろは》(鳩の平右衛門,1867年8月市村座),《伊呂波実記》(松浦の太鼓,1878年9月大阪戎座),《土屋主税》(1907年10月大阪角座)などのほかに,4世鶴屋南北の《東海道四谷怪談》(1825年7月中村座)のような外伝仕立ての傍系作があり,また,近代のものとしては,真山青果の《元禄忠臣蔵》が名高く,かつ優れている。(2)講談,浪曲にも,赤穂浪士の討入を題材とした作品群〈赤穂義士伝〉がある。…
※「元禄忠臣蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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