赤穂浪士(読み)あこうろうし

精選版 日本国語大辞典 「赤穂浪士」の意味・読み・例文・類語

あこう‐ろうし あかほラウシ【赤穂浪士】

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デジタル大辞泉 「赤穂浪士」の意味・読み・例文・類語

あこう‐ろうし〔あかほラウシ〕【赤穂浪士】

赤穂義士
大仏次郎の長編歴史小説。昭和2年(1927)から昭和3年(1928)にかけて東京日日新聞に連載。これに加筆した単行本は昭和3年(1928)から昭和4年(1929)にかけて刊行。

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改訂新版 世界大百科事典 「赤穂浪士」の意味・わかりやすい解説

赤穂浪士 (あこうろうし)

1701年(元禄14)3月14日に,江戸城本丸松之廊下で播磨赤穂城主(5万3500石)浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家肝煎(きもいり)(旗本)であった吉良上野介義央(よしなか)に突然斬りかかって傷を負わせた事件があった。この日は幕府の年賀に対する答礼のため京都から遣わされた勅使・院使に対して,将軍徳川綱吉の挨拶が白書院で行われるはずであったが,事件は勅使らの到着直前に起こった。浅野長矩は勅使の御馳走役であったが職務を放擲(ほうてき)して事を起こしたのである。これらの条件が浅野の罪を重くし,彼は即日切腹の処分をうけ,浅野家は取りつぶされた。吉良義央は儀礼担当の職にありながら浅野に十分な指示を与えず,浅野が恥をかくなどのことがあり,それを遺恨として吉良を殺そうとしたといわれ,浅野家中をはじめ巷間ではそのうわさを信じていたが,その実否は不明であり,幕府は浅野側の正当性はいっさい認めず一方的な犯罪として処理した。それにしてもこの処分は過酷であると世に受け取られた。浅野側ではこの事件をけんかとみ,幕府の処分を片手落ちとする一方,吉良はみずから手は下さなかったが結果的には浅野を破滅に追い込んだ仇敵とみなし,亡君の遺志を継いで吉良を殺し,両成敗を完成させることで,切腹・改易の処分によって失われた浅野家の名誉を回復しようとする者があった。いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに,吉良へもなんらかの処分がなされることで浅野家の名誉回復を期待し,幕府に嘆願したが,02年7月に大学が広島浅野家に御預けとなってその望みを断たれた後は急進派に合流した。そのときまで浅野家の再興を望んで盟約を結んできた家臣の多くはここで離散した。そして12月14日に大石以下の浅野家遺臣が本所の吉良邸に乱入し,吉良義央を殺害してその首を泉岳寺の長矩の墓前に献じたのである。この事件は有名になったために,後になって作られた史料が多く,事件の経過や浪士の動静,その処分をめぐっての幕府内部の議論までが伝えられているが,正確な情報は《堀部武庸筆記》や《江赤見聞記》(5巻まで)などわずかな史料から得られるにすぎず,ほとんどは十分な根拠のない虚構に近いものである。幕府では大石以下の行為は〈公儀を恐れざるの段,重々不届〉であるとして切腹を命じ,03年2月4日全員が死についた。吉良邸に討ち入ったのは47人といわれるが,このとき切腹したのは46人である。彼らは世に赤穂浪士,赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており,この事件は全体として赤穂事件と呼びならわされている。

 赤穂浪士は死後,〈義人〉〈義士〉としてたたえられた。なかでもその年の秋に室鳩巣(きゆうそう)が著した《赤穂義人録》が有名である。彼らが亡君の仇讐(きゆうしゆう)を報じた,または亡君の遺志を継いで吉良を殺したことが家臣・武士としての〈義〉に当たると考えられたからであり,全員が刑に服したことも世の同情を集めた。大名の家という閉鎖的な社会で主君たる大名のために生命をささげて仕え,主家の名誉のために死を賭けることは〈義〉といえるであろう。だが,江戸の武士社会は大名-家臣という主従関係に重なって,将軍-大名という関係がある。もし大名が将軍=幕府と対立した関係にあるとすれば,家臣の主君への〈義〉は幕府からみたときには〈不義〉となる。浅野長矩は吉良の加害者にすぎず,時と所をわきまえない犯罪によって幕府から死刑に処せられたのであるから,吉良は浅野の仇敵ではなく,幕府もそれを認めていない。赤穂浪士の行為は大名の家の観点からは〈義〉であろうが,幕府の側からみれば犯罪であり,したがって彼らは死刑に処せられた。幕府の立場を是とすれば浪士の行為は不義・不法でなければならない。

 このように二つの立場がある以上,赤穂浪士に対する見方が分かれるのは自然である。この一方の立場から徹底的な批判を加えたのが佐藤直方であり,赤穂浪士は幕府を相手とすべきであるのに,誤って吉良を討ったとの観点から批判したのが太宰春台であった。そしてこの両者の批判をめぐって賛否の議論が,宝永から天保まで130年にもわたって続けられた。赤穂事件には,二重の主従関係に限定される武士の生き方にかかわる深刻な問題が包蔵されていたからである。世論の大勢は浪士を支持し賞賛する側に傾いた。武士にとって大名の家こそが最終的に身を託すべき存在であり,家臣として生きることがもっとも切実であったからであろう。幕府が浪士の処分と同時に吉良家を取りつぶして両成敗と同じ結果にもちこんだことは,幕藩制の構造に基づく武士社会の動向を予見しての結果とみることができる。《仮名手本忠臣蔵》をはじめ,後世この事件に題材をとった文芸作品は多いが,幕藩制の二重の主従関係における武士の〈義〉とは何かという,赤穂事件の核心的な問題はほとんど見のがされている。なお赤穂浪士は長矩と同じ芝高輪の泉岳寺に葬られた。
執筆者:

太平の世に47人もの武士が一団となって,主君のための仇討を極秘裏に計画し,みごとに成功させたという赤穂浪士の事件は,江戸の庶民の注目を大いに集め,これに取材した数多くの作品群,いわゆる〈忠臣蔵物〉を現代に及ぶまで生み続けてきた。義のために身命をなげうった赤穂浪士たちの行動に,庶民は大いに共感しかっさいをおくり,続々と脚本が書き下ろされ上演され続けたのである。近松門左衛門は《太平記》の世界の話ということでこの討入事件をとりあげ,《兼好法師物見車(ものみぐるま)》に続けて,1710年(宝永7)には《碁盤太平記》を上演した。吉良上野介義央を高師直に,浅野内匠頭長矩を塩冶(えんや)判官に,大石内蔵助(くらのすけ)を大星由良助(ゆらのすけ)として登場させている。また,討入りから47年目の1748年(寛延1)に義士たちを描いた代表的な人形浄瑠璃が書かれた。竹田出雲,並木千柳,三好松洛の合作による《仮名手本忠臣蔵》である。この作品は,芝居の独参湯(どくじんとう)と呼ばれ,不入りのときでも《忠臣蔵》を出せば,必ずもちなおすといわれるほど民衆に愛される演劇となっていった。この作品が初演されて以来,江戸時代では,わずか数年をのぞいて毎年上演され,大ヒットを続けたのである。《仮名手本忠臣蔵》は,それまでに書かれた義士劇の集大成であり,その成立までの過程は江戸時代の庶民の生活感情を反映させ,演劇としての〈忠臣蔵〉の庶民化,普遍化への過程であった。この作品の出現により,赤穂浪士の事件そのものをも〈忠臣蔵の事件〉と呼ばせ,〈忠臣蔵物〉というジャンルの名称で一括させるほどの普及力があった。江戸後期から明治にかけては,講釈種をとり入れた多くの〈義士銘々伝〉や〈外伝〉がつくられた。四十七士に関するいろいろなエピソードを述べた〈銘々伝〉は,47人すべてに用意されたわけではないが,勘平(萱野三平)をはじめとして,堀部安兵衛神崎与五郎赤垣源蔵大高源吾,寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などがとりあげられ,個性豊かなイメージを庶民に与えていった。またそれは,庶民の赤穂浪士たちへの知識を前提として,ふくらんでいったものでもあり,庶民の義士への夢を満たすものでもあった。〈忠臣蔵〉にその世界をとった作品は,歌舞伎浄瑠璃,小説をはじめ,浪曲,講談から,映画,ラジオ,テレビ,軽演劇,さらには漫画にいたるまで,膨大な数にのぼる。それは,日本の庶民が〈忠臣蔵〉の世界をいかに愛し続けてきたかを物語るものであろう。
忠臣蔵物
執筆者:


赤穂浪士 (あこうろうし)

大仏(おさらぎ)次郎の長編小説。1927-28年(昭和2-3),《東京日日新聞》に連載。28-29年,改造社から3巻本として刊行。この小説中の大石良雄は,松の廊下での刃傷事件に対する幕府の処置をけんか両成敗の原則への違背とみなし,彼の指導する吉良屋敷への討入りを〈御公儀に向けての反抗,大異議〉と規定する。すなわち作者は,赤穂事件を描くさいに,講談風の封建的な義士礼賛を排し,芥川竜之介が歴史小説中でとった近代的解釈の方法を継承し,これに豊かな肉付けを加えて物語を展開させた。虚無的な浪人堀田隼人,社会批評眼の鋭い泥棒蜘蛛の陣十郎など架空の人物は,伝奇的興味を増すばかりでなく,読者と物語の世界とを仲介するものである。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「赤穂浪士」の意味・わかりやすい解説

赤穂浪士【あこうろうし】

元禄15年(1702年)12月14日夜,江戸本所に高家肝煎(こうけきもいり)吉良義央(きらよしなか)の首級をあげ主君の仇を討った大石良雄以下46人をいう。討入りの際に脱落した寺坂吉右衛門を加え一般に四十七士という。前年3月,赤穂藩主浅野長矩(ながのり)は,勅使下向の際の接待役となったが,幕府の儀礼担当職にあった義央を江戸城中で刃傷(にんじょう)に及んだため所領を没収され,即日切腹を命じられた。義央は御役御免のみであった。浅野側の正当性をまったく認めようとしない幕府の処置を不服とする大石良雄を首領とする家臣らは,亡君の仇敵義央を討とうとする急進派と,長矩の弟大学をたてて浅野家を再興し,名誉を回復しようとした大石らとに分れた。しかし,浅野家再興の望みがたたれた後,大石らは急進派に合流し,吉良邸に討ち入った。この事件については,室鳩巣荻生徂徠,佐藤直方ら当時の学者の間で是非論があったが,幕府は翌1703年2月全員に切腹を命じた。→仮名手本忠臣蔵
→関連項目赤穂藩敵討福本日南堀部安兵衛

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デジタル大辞泉プラス 「赤穂浪士」の解説

赤穂浪士〔ドラマ〕

1964年放映のNHKの大河ドラマ。原作は、大仏次郎の同名小説。赤穂浪士の吉良邸討ち入りまでの人間模様を描く。討ち入りの回で、大河ドラマ史上最高(当時)の視聴率53.0%を記録。脚本:村上元三。音楽:芥川也寸志。出演:長谷川一夫・山田五十鈴ほか。

赤穂浪士〔戯曲〕

長谷川裕久による戯曲。1995年、水戸芸術館ACM劇場のプロデュースで初演。1996年、第40回岸田国士戯曲賞の候補作品となる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤穂浪士」の意味・わかりやすい解説

赤穂浪士
あこうろうし

赤穂義士」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の赤穂浪士の言及

【江戸時代】より

…家老も,主君への依存性が強まる過程で少なくとも主君との感情共有が成立しているかのように行動することを強制されることとなった。赤穂浪士の敵討は彼らの言うところによれば吉良を憎いと思う主君の気持ちをみずからに感情移入した行動で,一種の集団殉死といえるものであったが,大石のような家老がその一員となることは初期にはありえないことであった。家老以下の家臣も,17世紀の後半のころ地方(じかた)知行から蔵米制への移行に伴って,大名から相対的に独立した武士としての実質を失っていった。…

【泉岳寺】より

…山号は万松山(ばんしようざん)。赤穂浪士の墓で知られる。1612年(慶長17)徳川氏により外桜田に創建され,開山には大中寺(栃木県大平町)の建室宗寅(けんしつそうえん)の弟子,門庵宗関(もんなんそうかん)(今川義元の三男ともいわれる)が迎えられた。…

【忠臣蔵物】より

…(1)赤穂浪士の復讐譚に取材した歌舞伎および人形浄瑠璃の作品の総称。〈忠臣蔵物〉という呼称は,代表作《仮名手本忠臣蔵》の名題に拠る。…

【日本】より

… 江戸時代の後半期に流行した石門心学の要点は,第1に,行為の評価は,その結果よりも意図によるべきこと,第2に,善意は,利己的でなく,社会から与えられた役割を果たそうとする意志として定義されること,第3に,最高の倫理的価値は,つねに善意の生じるような心的状態を培うことであった。赤穂浪士の復讐の圧倒的な人気――それは歌舞伎や映画を通じて200年以上も持続した――も,主君への忠誠という動機(家臣の役割に忠実な自己犠牲という善意),および彼らの集団の団結とかかわり,その行動の結果(私的暴力の行使による多数の犠牲者)とはかかわらない。石門心学の〈正しい心〉(善意)は,またしばしば〈誠〉(誠心誠意)と呼ばれる。…

【堀部安兵衛】より

赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね),安兵衛は通称。…

【赤穂浪士】より

…吉良邸に討ち入ったのは47人といわれるが,このとき切腹したのは46人である。彼らは世に赤穂浪士,赤穂四十七士または四十六士などと呼ばれており,この事件は全体として赤穂事件とよびならわされている。 赤穂浪士は死後,〈義人〉〈義士〉としてたたえられた。…

※「赤穂浪士」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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