日本歴史地名大系 「恋ヶ窪村」の解説 恋ヶ窪村こいがくぼむら 東京都:国分寺市恋ヶ窪村[現在地名]国分寺市西恋ヶ窪(にしこいがくぼ)一―四丁目・東恋ヶ窪(ひがしこいがくぼ)一―六丁目・泉町(いずみちよう)二―三丁目・日吉町(ひよしちよう)四丁目国分寺村の北・西にあり、北西は戸倉(とくら)新田。村名は鯉ヶ窪とも記される。恋ヶ窪の語源は「こい」が古代では水を表す言葉であることから、水の湧き出る窪地をさすとも考えられている。また地名の由来については、当地が鎌倉街道の宿場であったことから、鎌倉幕府草創期に畠山重忠の寵愛を受けた宿場の遊女が悲恋のなかで死去し、村人がそれを哀れんで塚を築き、傾城(けいせい)の松と称したことから起こったとの伝承(一葉松伝説)がある。聖護院門跡の道興准后が東国を遊行した際、文明一八年(一四八六)に「恋か窪といへる所にて」足を止め、「朽はてぬ名のミ残れる恋かくほ今ハたとふも契ならすや」の和歌を詠じたことがその紀行文である「廻国雑記」にみえている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by