日本歴史地名大系 「慶光院跡」の解説
慶光院跡
けいこういんあと
臨済宗の尼寺。代々上人号と紫衣を許された。境内には大神宮祠と弁財天堂がある。創始は不詳であるが、慶光院の名は、天文二〇年(一五五一)八月二〇日付の後奈良天皇綸旨(慶光院文書)に「清順居住室号慶光院之由被聞食訖、殊至太神宮御裳濯橋造畢供養成其功之由、叡感無極、而今度造替之事、応一社之請、同可遂其沙汰旨神妙之由 天気所候也」とみえる。清順は応仁の乱以後、一〇〇余年にわたって中絶していた神宮の式年遷宮の復興に尽力した。清順は近江浅井郡山本に山本左京進義里の娘として生れ、天文一六年に、朝廷から国家安全宝祚無窮の祈祷を命ぜられ、同一八年には宇治大橋の供養を行い、同二〇年になって神宮造営のための募財を試みるに至った。
永禄六年(一五六三)五月一〇日付正親町天皇綸旨(「永禄記」所引)に「太神宮正遷宮之事、任旧例以役夫工米可有其沙汰之処、当時諸国之儀、別不周備者、遅々之基也、雖為新儀及郡県之奉加了、仍被付靫負尉両人、此旨可被存知者依 天気言上如件」とあり、この時、清順によって行われた募財の方法は、従来の諸国役夫工米に依存することを改め、諸国勧進の方式であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報