成安保(読み)なりやすほ

日本歴史地名大系 「成安保」の解説

成安保
なりやすほ

京都祇園社(感神院)の神供料所で、史料上は成安名としても散見し、「日野牧上保内成安名」(建武元年三月一八日「成安名名主職宛行状」蒲生文書)、「迫村日野牧成安名」(応永一五年一〇月三日「足利義持御教書」同文書)などとあることから、現日野町はさまを含む日野川一帯に比定される。同社の長日用途料所で、一一世紀末に成立したと考えられる四ヵ保の一、守富もりとみ保がのち三つに分割されて当保が成立、その時期は正治元年(一一九九)五月一三日に祇園社に官符宣が下されて、守富保における大小国役万雑公事の違乱停止等が命じられたとする記事(社家条々記録)を最後に同保の名が史料に表れなくなることから、一二世紀末から一三世紀初頭にかけてのことと考えられる。同じく「社家条々記録」によれば、得田六〇町・役田六〇町で構成された守富保が分割されたのは保司良円のときで、当保(得田一〇町・役田一〇町)は良円の子四郎円信に譲られ、「都合三十ケ日、料米廿五石七斗七升」のほか「閏月下旬三ケ日、料米二石五斗七升七合」の神供料米を納めることになっており、ほかにも恒例・臨時の社役・公用、塔造替の折の負担などが課せられていた。

元久元年(一二〇四)四月、儀俄氏の祖蒲生五郎俊光が知行していた「生郡散在田畠兼次名并成安名」の名主職に関して良範なる者の押妨があり、翌二年五月二三日、俊光の訴えに基づいて北条時政は将軍の下知を伝えて良範の押妨を停止、俊光の知行を安堵するとともに良範に主張があれば問注におよぶべきことを命令している(「関東下知状」尊経閣文庫)。なお前掲建武元年(一三三四)の宛行状で成安名名主職一〇町五反小三〇歩が儀俄左衛門(太郎)入道道覚(頼秀)に宛行われ、これに関連した僧行暹署名の同年八月三日付の坪付断簡(蒲生文書)によれば成安名の所当米は本田加徴米をもって反別に六升、ならびに「壱色分田」反別に七斗、「今新田」反別に二斗、「野新田」反別に四斗代であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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