戸張村(読み)とばりむら

日本歴史地名大系 「戸張村」の解説

戸張村
とばりむら

[現在地名]柏市戸張・東柏ひがしかしわ一―二丁目・関場町せきばちよう・あかねちよう

柏村の南東、手賀てが沼の南西岸にあり、岸辺には河岸場(戸張河岸)が置かれていた。一部が同沼に半島状に突き出した台地部分を中心に集落が形成され、台地上の字城山台しろやまだいには中世の戸張城跡がある。享保年中(一七一六―三六)には地先の手賀沼を干拓して戸張村新田が開発された。手賀沼に流入する大津おおつ川を挟んで南東は大井おおい(現沼南町)。柏村に通じる道が唯一の道で、この道には地形状から坂が多く、狐火とうか坂・駄賃馬だちまん坂などの名がある。また地内には根郷ねごう一番割いちばんわりため三斗蒔さんとまき用替ようがえ地蔵免じぞうめん番匠作ばんしようさくなどの字名も残る。

相馬系図(諸家系図纂)では相馬師常の子行常が戸張八郎を称したとし、現福島県相馬そうま歓喜かんき寺所蔵の相馬之系図では相馬胤村の曾孫胤重に戸張と記されているが、いずれも不詳。「本土寺過去帳」によると正長元年(一四二八)六月二日に「トハリ」の妙祐尼が没しており、これが年紀の判然とするものでは地名のみえる早い例である。同過去帳によると、文明五年(一四七三)六月一二日には「トハリ大弐」の父岩立式部丞道範が没し、翌年に没した岩立小沢入道に「トハリ」、さらに同一九年六月三日に没した岩立左衛門二郎道円には「戸張」と注記があり、当地と岩立氏の関係が顕著である。戸張を姓とする確実な人物は延徳四年(一四九二)一一月二三日に没した戸張蔵人殿や翌明応二年(一四九三)二月一八日に没した戸張殿法名宝林などが早期のものであろう。

戸張村
とばりむら

[現在地名]世羅町戸張

徳市とくいち村と山を隔てた東にあり、村の東部赤根あかね谷に発して南隣の安田やすだ村を経て北流する戸張川流域と、東境頭士ずし(六四八・三メートル)にかけての谷々を主な村域とする。「和名抄」記載の世羅郡鞆張とばり郷の地で、仁安二年(一一六七)七月日付備後国司庁宣(高野山文書)戸張保とあり、このとき大田おおた大田郷に組入れられている。嘉禎二年(一二三六)九月二七日の備後国大田山中四郷在家目録(同文書)によると、山中やまなか四郷の一つであった。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村高三七五石六斗七升八合とあり、「芸藩通志」では五三三石六斗九升八合と増加。「世羅郡誌」によると文政三年(一八二〇)には実畝六一町七反八畝三歩のうち田二一町二反七畝三歩・畠三九町九反七畝三歩・宅地五反三畝二七歩で、本途物成は二五六石七斗九合、万延元年(一八六〇)には高が一七〇石七斗六升八合あり、村高の約四分の三が五人の給知、他は明知と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報