世羅郡(読み)せらぐん

日本歴史地名大系 「世羅郡」の解説

世羅郡
せらぐん

面積:二七八・四九平方キロ
世羅西せらにし町・世羅せら町・甲山こうざん

県東部中央に展開する標高三〇〇―六〇〇メートルの世羅台地に立地、瀬戸内海へ流入する芦田あしだ川水系と、日本海へ流入するごうの川水系の水源地帯にあたり、各所に分水嶺をもつ。南は御調みつぎ郡を経て瀬戸内海沿岸に至る。南寄りに流れる芦田川流域に開けた甲山盆地を中心に、各河川流域の平地に農耕地・住居がある。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡はいずれも丘陵や河川沿いの微高地にみられ、甲山盆地の大田おおた遺跡、宇津戸うづと北部の丘陵の頓迫とんざこ遺跡などがある。弥生時代遺跡も同様な立地条件にあり、低湿地を利用した農耕が行われ、盆地内の遺跡からは石包丁などの石器や土器などが出土し、世羅西町を流れる美波羅みはら川流域の丘陵からは県内で二例目の銅鐸が出土。古墳時代には各河川支流域の可耕地の開発も行われ、前期古墳には甲山町赤屋の文裁寺横あかやのぶんさいじよこ古墳、世羅町井折いおりでんびら一号古墳など直径二〇メートル以上の古墳が丘陵上に立地。後期古墳は郡内最大の石室を有する世羅町の康徳寺こうとくじ古墳をはじめ各地にみられ、出土物も多く、窯跡も発見されている。康徳寺古墳東側にある白鳳期の康徳寺廃寺は、鎌倉時代にかけての大寺とされている。この古墳と寺跡につながる豪族が、後に開発領主の子孫として勢力を誇り郷司や大田庄下司・地頭を務めた橘氏と考えられる。郡内各河川の流域には条里制の遺構があり、早くから村(郷)の成立がみられ、平安時代には名田経営が行われている。

世羅郡には古代、桑原くわばら・大田・津口つくち鞆張とばりの四郷があった(和名抄)。「日本後紀」延暦二四年(八〇五)一二月七日条に備後国山間八郡の一つとして「世羅」とあるのが郡名の初見で、「三代実録」貞観七年(八六五)八月一七日条に八郡は山間の僻地で鉄を産するが旱疾により疲弊したため、毎年四郡ずつ課役を免じたとある。世羅は郡衙のあった小世良おぜらに由来するといわれ、甲山町小世良にある小世良八幡神社は大田庄八ヵ村によって祀られていた。「延喜式」神名帳所載の「和理比売ワリヒメノ神社」は世羅町本郷ほんごうに鎮座する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報