手洗村
たらいむら
[現在地名]豊田町大字手洗
豊田平野の南西部華山山麓の平地に位置し、北西は阿座上村、北は中村、東は日野村、南は木屋川を隔て東長野村、西は江良村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属す。
天正一五年(一五八七)細川幽斎が筑前に下った折の「九州道の記」はその五月の条に、大津郡深川村(現長門市)の大寧寺より赤間関街道(北道筋)をたどって楢原村妙栄寺に寄り、その後、
<資料は省略されています>
という手洗の地名を詠みこんだ歌を記している。これによってもわかるとおり、赤間関街道に沿った村で、ほかにも庭田村よりの御米道(庭田越)も手洗村で合流する。
慶長期(一五九六―一六一五)の検地帳にはその名はないが、西市町紅粉屋家の正保四年(一六四七)の文書に手洗村とあるから長府藩は独立村と認めていたらしい。
手洗村
てあらいむら
[現在地名]豊橋市岩崎町
赤石山脈の麓、北部は多米村に接する。鎌倉街道に沿う。仁治三年(一二四二)八月の紀行である「東関紀行」に、
<資料は省略されています>
と記された辺りと思われる。
近世を通じて吉田藩領。正徳二年(一七一二)の三州宝飯郡手洗村差出シ帳(手洗区有)によれば、高五八石余、上田二町五反余・中田一町一反余・下田二反余、上畑四反余、家数七、人数三四、うち男一七・女一七。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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