押原村(読み)おしはらむら

日本歴史地名大系 「押原村」の解説

押原村
おしはらむら

[現在地名]鹿沼坂田山さかたやま御成橋町おなりばしちよう泉町いずみちよう睦町むつみちよう戸張町とはりちよう千手町せんじゆちよう上材木町かみざいもくちよう天神町てんじんちよう久保町くぼちよう銀座ぎんざ今宮町いまみやちよう仲町なかまち麻苧町あさうちよう石橋町いしばしちよう下材木町しもざいもくちよう寺町てらまち蓬莱町ほうらいちよう万町よろずちよう三幸町さんこうちよう鳥居跡町とりいどちよう文化橋町ぶんかばしちよう朝日町あさひちよう上田町かみたまち末広町すえひろちよう東末広町ひがしすえひろちよう中田町なかたまち下横町しもよこまち下田町しもたまち

くろ川右岸に位置し、東は上府所かみふどころ村・下府所村、南は上殿かみどの村、西は西鹿沼村・花岡はなおか村、北は玉田たまだ村。南北に壬生みぶ通が通る。当地は古くから鹿沼とも称され、江戸時代には宿が置かれ、「地方ニ而押原村と唱へ、宿方に付候儀鹿沼宿と唱候由」(宿村大概帳)というようになった。慶長六年(一六〇一)当地の代官大河内金兵衛によって町割が行われたと伝える。

日光山往古社領六十六郷の一つに押原郷がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。永正六年(一五〇九)連歌師宗長の日記「東路の津登」に「八嶋より日光山へ各うちつれ、かぬまといふ所に綱房父筑後守綱重の館あり、一宿して念比のいたはり、筆にも尽しかたし」とあり、宗長は壬生の壬生綱房の館に赴いて連歌の会を催し、そのあと鹿沼の壬生綱重の館に宿泊している。壬生氏の鹿沼進出は大永三年(一五二三)といわれるが、同書によればそれ以前のことになる。壬生綱重は坂田山の館を居所とした。永禄元年(一五五八)八月二五日の宇都宮広綱充行状(関沢文書)によれば、宇都宮広綱は「鹿沼之内廿貫文之地」を関沢左兵衛佐に宛行っている。天正年間(一五七三―九二)になると、壬生氏は小田原北条氏方となり宇都宮氏・佐竹氏と戦闘を繰返すようになり、鹿沼城はじめ周辺は度々戦火にさらされた。年未詳四月二二日の宇都宮国綱感状(同文書)には「今度鹿沼之地へ懸入、坂田其外町中焼破」とみえる。

元和三年(一六一七)の頃当村は東町西町とに分れ、東町は下総山川藩領となり、西町は井上正就領となる。以後、享保一〇年(一七二五)まで両町は別支配となる。東町は寛永一二年(一六三五)から阿部重次領、慶安元年(一六四八)武蔵岩槻藩領となった。西町は元和八年井上正就が遠江横須賀よこすか(現静岡県小笠郡大須賀町)に移され横須賀藩領となる。寛永一三年朽木稙綱領となり、慶安二年に鹿沼藩領となる。「寛文朱印留」では鹿沼藩と岩槻藩の相給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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