日本歴史地名大系 「押原村」の解説
押原村
おしはらむら
- 栃木県:鹿沼市
- 押原村
日光山往古社領六十六郷の一つに押原郷がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。永正六年(一五〇九)の連歌師宗長の日記「東路の津登」に「八嶋より日光山へ各うちつれ、かぬまといふ所に綱房父筑後守綱重の館あり、一宿して念比のいたはり、筆にも尽しかたし」とあり、宗長は壬生の壬生綱房の館に赴いて連歌の会を催し、そのあと鹿沼の壬生綱重の館に宿泊している。壬生氏の鹿沼進出は大永三年(一五二三)といわれるが、同書によればそれ以前のことになる。壬生綱重は坂田山の館を居所とした。永禄元年(一五五八)八月二五日の宇都宮広綱充行状(関沢文書)によれば、宇都宮広綱は「鹿沼之内廿貫文之地」を関沢左兵衛佐に宛行っている。天正年間(一五七三―九二)になると、壬生氏は小田原北条氏方となり宇都宮氏・佐竹氏と戦闘を繰返すようになり、鹿沼城はじめ周辺は度々戦火にさらされた。年未詳四月二二日の宇都宮国綱感状(同文書)には「今度鹿沼之地へ懸入、坂田其外町中焼破」とみえる。
元和三年(一六一七)の頃当村は東町と西町とに分れ、東町は下総山川藩領となり、西町は井上正就領となる。以後、享保一〇年(一七二五)まで両町は別支配となる。東町は寛永一二年(一六三五)から阿部重次領、慶安元年(一六四八)武蔵岩槻藩領となった。西町は元和八年井上正就が遠江
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報