押川 則吉
オシカワ ノリキチ
- 肩書
- 貴院議員(勅選),内務次官
- 別名
- 旧名=千代太郎
- 生年月日
- 文久2年12月19日(1862年)
- 出身地
- 鹿児島県
- 学歴
- 駒場農学校(現・東大農学部)〔明治13年〕卒
- 経歴
- 鹿児島藩士の長男として生まれる。明治16年農商務省に入省。21〜24年欧州に出張。農商務技師、台湾総督府民政局事務官、同殖産部長、山口、山形、大分、長野、岩手、熊本などの知事を歴任。第2次桂内閣の農商務次官、第3次桂内閣の内務次官を務め、44年貴院議員に勅選。大正6年八幡製鉄所長官に就任したが、収賄事件の責任を追求され、7年2月自宅で自殺した。
- 没年月日
- 大正7年2月18日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
押川 則吉
オシカワ ノリキチ
明治・大正期の官僚,政治家 内務次官;貴院議員(勅選)。
- 生年
- 文久2年12月19日(1863年)
- 没年
- 大正7(1918)年2月18日
- 出身地
- 鹿児島県
- 別名
- 旧名=千代太郎
- 学歴〔年〕
- 駒場農学校(現・東大農学部)〔明治13年〕卒
- 経歴
- 鹿児島藩士の長男として生まれる。明治16年農商務省に入省。21〜24年欧州に出張。農商務技師、台湾総督府民政局事務官、同殖産部長、山口、山形、大分、長野、岩手、熊本などの知事を歴任。第2次桂内閣の農商務次官、第3次桂内閣の内務次官を務め、44年貴院議員に勅選。大正6年八幡製鉄所長官に就任したが、収賄事件の責任を追求され、7年2月自宅で自殺した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
押川則吉
没年:大正7(1918.2.18)
生年:文久2.12.19(1863.2.7)
明治大正時代の官僚。鹿児島藩士押川乙五郎の長男。駒場農学校(東大農学部)卒業後,明治16(1883)年農商務省に入り,農学士,農芸化学士の学位を授けられた。新潟県御用掛を勤めたのち21年フランス大博覧会事務官補としてフランスに出張,同時に農事経済取調のため欧州各国を歴訪した。24年帰国し農商務技師,台湾総督府民政局事務官,同殖産部長,山形・大分・長野・岩手・熊本各県知事などを歴任。のち第2次桂内閣の農商務次官,第3次桂内閣の内務次官を務め,東洋拓殖会社設立委員,鉱毒調査会委員長,神職高等試験委員長などにもなり,製鉄所長官も務めた。44年には貴族院議員に勅選された。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
押川則吉 おしかわ-のりきち
1863*-1918 明治-大正時代の官僚。
文久2年12月19日生まれ。農商務省をへて,明治30年山形県知事となり,熊本県などの知事,農商務次官,内務次官を歴任。44年貴族院議員。大正6年八幡製鉄所長官のとき贈収賄事件がおこり,その責任を追及されて7年2月18日自殺した。57歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。駒場農学校卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
押川 則吉 (おしかわ のりきち)
生年月日:1863年12月19日
明治時代;大正時代の官僚;政治家。貴族院議員;製鉄所長官
1918年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報