山形(読み)ヤマガタ

デジタル大辞泉 「山形」の意味・読み・例文・類語

やまがた【山形】[地名]

東北地方南西部の県。日本海に面する。明治元年(1868)に出羽でわから分かれた羽前うぜんの全域と羽後うごの一部にあたる。人口116.9万(2010)。
山形県中東部の市。県庁所在地。最上氏の城下町として発展、江戸時代は藩主の交代が相次ぎ、幕末には水野氏の城下町。鋳物やサクランボウを産し、ベニバナの集散地。蔵王温泉立石寺などがある。人口25.4万(2010)。

やま‐がた【山形/山型】

山のような形。やまなり。「荷物を―に積む」
鞍の前輪まえわ後輪しずわで、中央部の高くなったところ。
射場の的の後方に張った幕。的皮まとがわ
歌舞伎などの立ち回りの型の一。刀を大きく上段に振りかぶって左右に打ちおろす。
折烏帽子おりえぼしの部分の名。ひなさきの上部で、最も高い部分。
紋所の名。山をかたどったもの。入り山形・違い山形など種類が多い。
江戸吉原の細見で、遊女の源氏名に付けて等級を示すしるし。また、その等級の遊女。一重は部屋持ち、二重は座敷持ち以上を表し、白山形・黒山形、山形に一つ星などのしるしがあった。

やま‐なり【山形】

山のような、中央が高くなった形を描くこと。また、その形。「山形のボール」

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「山形」の意味・読み・例文・類語

やま‐がた【山形・山型】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 山のような形。中央が高くとがり、左右が斜めに下がっている形。
      1. [初出の実例]「おぼしめす御しんじ申こと、ねんごろにかきとどめ、山がたやうにおしたたみ」(出典:説経節・説経しんとく丸(1648)上)
    2. 灌仏会の時、誕生仏の背後に飾る須彌山(しゅみせん)の作り物。
      1. [初出の実例]「山形二基、一基立青龍形、一基立赤龍形」(出典:延喜式(927)一三)
    3. 射芸で、歩射の的の後方に立てる矢防ぎの布を垂らす台。
      1. [初出の実例]「侯後四許丈張山形紺布之」(出典:内裏式(833)十七日観射式)
    4. 馬具で、鞍橋(くらぼね)の前輪(まえわ)や後輪(しずわ)の中央の高くなっているところ。
      1. [初出の実例]「のりたる鞍の後の山がたをいけづり」(出典:曾我物語(南北朝頃)一)
    5. 唐太刀(からたち)や飾り太刀の帯取(おびとり)を掛ける足金物(あしかなもの)の座につけた連山の形状を示す金物。燧金物(ひうちがなもの)とも。
      1. [初出の実例]「金銀荘作唐大刀一口〈刃長二尺七寸二分〉鋒者両刃、鮫皮褁把、金銀作山形龍鱗葛形平文」(出典:正倉院文書‐天平勝宝八年(756)六月二一日・東大寺献物帳)
    6. 折烏帽子(おりえぼし)の部分の名。ひなさきの上部で、正面から高く見える部分。頂を折り伏せた烏帽子の、もっとも高くそびえている部分。
    7. 歌舞伎などの立回りの型の一つ。刀を大きく上段に振りかぶって、左右に打ちおろすこと。太刀打ちの最初の型で、上段から左に振りおろし、次いで右に振りおろす。刀さばきが山のような形になるところから、この名で呼ばれる。
    8. 紋所の名。山の形をかたどったもの。山形、入山形などがある。
      1. 山形@入山形
        山形@入山形
    9. 屋号の上につける標識。の形状で示すもので入山形、差金山形、花山形などがある。
    10. 江戸吉原の細見で、遊女の源氏名の上につけるしるし。また、その等級の遊女。白山形・黒山形や、山形に一つ星、二つ星などと、遊女の段階に応じて符号があり、揚代の高下の目やすともなっていた。一重の山形は部屋持ちをあらわし、二重の入り山形は座敷持ち以上を示した。山形の星。
      1. [初出の実例]「彼の細見に(ヤマカタ)の有と無のが官位門」(出典:洒落本・廓節要(1799)序)
  2. [ 2 ] ( 山形 )
    1. [ 一 ] 山形県東部の地名。県庁所在地。山形盆地の南部に発達した中世以来の城下町。江戸時代は領主の交替が多く衰退。現在では鋳物・電子機器工業などが行なわれる。明治二二年(一八八九)市制。
    2. [ 二 ]やまがたけん(山形県)」の略。

さん‐けい【山形】

  1. 〘 名詞 〙 山の形。山のなり。山勢。
    1. [初出の実例]「東海道で飛行機の上から富士山を見たが、〈略〉その色彩山形の美しさに、恍惚とするばかりであった」(出典:話の屑籠〈菊池寛〉昭和六年(1931)一〇月)
    2. [その他の文献]〔庾信‐周大将軍侯莫陳君夫人竇氏墓誌銘〕

やま‐なり【山形】

  1. 〘 名詞 〙 山のような形になること。また、その形。やまがた。
    1. [初出の実例]「山形に寝ればなく也閑古鳥」(出典:俳諧・文化句帖‐元年(1804)四月)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山形」の意味・わかりやすい解説

山形(県)
やまがた

東北地方の南西部に位置する県。北西部は日本海に面し南北約153キロメートル、東西約97キロメートルで、よく人の横顔に例えられる形をしている。北部は鳥海(ちょうかい)山、丁(ひのと)岳山地、神室(かむろ)山で秋田県と境し、東部は南北に走る奥羽山脈を境に宮城県および福島県と接し、南部は吾妻(あづま)山地、飯豊(いいで)山地の両山地で福島県と、南西は朝日山地と飯豊山地で新潟県と境している。面積は9323.15平方キロメートルで、東北6県では5番目であるが、全国では9番目に大きな県である。県庁所在地は山形市。

 四方を山地で囲まれているため他地域との隔絶性が強く、近世までは峠越えの陸路よりも、県内を縦貫して日本海に流出する最上川(もがみがわ)の舟運が物資交流の大動脈で、西廻(にしまわり)海運による上方(かみがた)との結び付きが強かった。県土の約75%を流域とし、しかも県内だけを流れる最上川は、まさに山形県の「母なる川」として、産業や県民生活に現在も大きな役割を果たしている。

 県内は、県中央西寄りを南北に横たわる出羽(でわ)山地を境にして、日本海に面し庄内(しょうない)平野を中心とする庄内地方と内陸地方に大別され、さらに内陸地方は、米沢(よねざわ)盆地、山形盆地、新庄盆地を中心とした、それぞれ藩政期までの歴史的背景も異なる置賜(おきたま)、村山、最上の三つの地域に分けられる。

 人口は2020年(令和2)国勢調査では106万8027。1950年(昭和25)の136万をピークとしてその後青少年層の県外流出によって減少の一途をたどり、とくに山村地域での過疎化が急速に進行して、1973年には121万となった。しかし、1974年以降は自然増加が社会減少を上回り、増加傾向に転じていたが、1989~1993年(平成1~5)の間はふたたび微減し、1994年、1995年は微増し、1996年以降は減少している。人口分布をみると市部が80.5%を占め、地域別では村山(むらやま)地域が県人口の49.8%を占めている(2020)。とくに山形市と天童(てんどう)市などの県都周辺地域への人口集中による増加がみられる一方で、山村地域を控えた町村での減少傾向には歯止めがかからず、人口高齢化現象も顕著になってきている。

 2002年(平成14)4月には13市9郡27町4村からなっていたが、平成の大合併を経た2020年10月時点では13市8郡19町3村となっている。

[中川 重]

自然

地形

県域の4分の3を山地、丘陵が占めているが、標高1000メートル以上の山地は8%にすぎない。県域の東縁を限る奥羽山脈は、第三紀層の基盤岩の上に、船形(ふながた)火山、蔵王(ざおう)火山、吾妻火山などが覆った連峰から形成されている。県北半部の中央を走り県域を庄内と内陸に二分する出羽山地は、第三紀の堆積(たいせき)岩からなる丘陵で、鳥海山や月山(がっさん)などの火山がそびえる。その南部には花崗(かこう)岩からなり壮年期の険しい山容を示す朝日山地と飯豊山地が越後(えちご)山脈の北端を占めている。

 奥羽山脈と出羽山地の間には断層による陥没地溝性の米沢盆地、山形盆地、新庄盆地が南北に並んでいる。前二者は堆積盆地で、山形盆地東部には馬見ヶ崎(まみがさき)川扇状地などの大きな扇状地が形成され、後者は低丘陵地が広く分布する開析盆地という特徴がある。県の南端吾妻山地に源を発する最上川は、これらの盆地群をちょうど数珠(じゅず)をつなぐように北流し、新庄盆地西部から出羽山地を最上峡によって横断し、庄内平野に入り、酒田付近で庄内砂丘を切って日本海に注いでいる。庄内平野は、かつての潟湖(せきこ)が最上川や赤川などによって形成された三角州や扇状地などからなり、県内の盆地、平野のなかで最大の平地である。

 自然公園には、ブナなどの原生林が残る朝日山地、飯豊山地や、山岳信仰で知られる出羽三山が磐梯(ばんだい)朝日国立公園の北半を占めるほか、火口湖のお釜(かま)と樹氷で知られる蔵王国定公園、出羽富士ともよばれ日本海に裾野(すその)を引く鳥海山と、日本海の孤島飛島(とびしま)からなる鳥海国定公園、ブナの原生林や滝の多い神室山地が含まれる栗駒(くりこま)国定公園があり、県立自然公園は御所山(ごしょざん)、庄内海浜、県南、加無山(かぶやま)、天童高原、最上川の六つがある。自然公園の総面積は県土の約17%を占めている。

[中川 重]

気候

内陸の盆地気候と庄内の海岸気候とに大別される。内陸の年平均気温は10℃内外であるが、昼夜の気温較差が大きいだけでなく、夏の暑さと冬の寒さがともに厳しい。山形市では1933年(昭和8)7月25日に40.8℃を記録し、これは2007年(平成19)8月16日に岐阜県多治見(たじみ)市と埼玉県熊谷(くまがや)市が40.9℃を記録するまでは日本における観測史上最高気温であった。年降水量は1100ミリメートル程度(山形市)で比較的少ないが、冬の季節風が吹き込む米沢盆地や新庄盆地は雪が多く、根雪期間も100日を超える所も多い。一方、庄内は対馬(つしま)海流の影響で平均気温は内陸より2℃ほど高く、日照時間も長く比較的温和な気候を示すが、風の強い日が多く、とくに冬の季節風による激しい地吹雪(じふぶき)はしばしば道路交通を渋滞させる。

[中川 重]

歴史

先史・古代

県内では約50か所以上もの旧石器遺跡が確認されており、その最古の遺跡は飯豊町上屋地B遺跡(かみやちびーいせき)で、3、4万年前の前期旧石器時代のものとされる。縄文期遺跡は前期から晩期にわたり広範囲に散在しているが、東北最古の土器とともに大量の遺物が出土した高畠(たかはた)町日向洞窟(ひなたどうくつ)(国の史跡)や、貯蔵用のフラスコ状の小竪穴(たてあな)が発見された前期終末の大石田町角二山遺跡(かくにやまいせき)、遊佐(ゆざ)町吹浦遺跡(ふくらいせき)が著名である。弥生(やよい)期遺跡は米沢盆地や山形盆地の沖積地の微高地に多くみられ、籾圧痕(もみあっこん)や石包丁が出土している。5世紀に入ると米沢盆地や山形盆地では巨大墳墓の築造がみられ、8世紀ころまで続いた古墳文化の様相は山形市嶋(しま)遺跡や米沢市戸塚山古墳群などからよくうかがえる。

 708年(和銅1)越後(えちご)国の一郡として出羽郡(いではぐん)が置かれ、出羽柵(いではのき)が設置された。712年には陸奥(むつ)国から最上、置賜の2郡を分け出羽郡に合併して出羽国が設けられ、庄内に国府が置かれている。11世紀中ごろの前九年・後三年の役を経て、平泉(岩手県)に奥州藤原政権が成立するが、その勢力は飽海(あくみ)郡の遊佐荘(ゆさのしょう)、最上郡の大曽禰荘(おおそねのしょう)、置賜郡の屋代荘などにまで及んだ。

[中川 重]

中世

1189年(文治5)源頼朝(よりとも)の奥州征伐後、地頭(じとう)職として大江広元の長男親広(ちかひろ)(生没年不詳)が寒河江荘(さがえのしょう)、次男長井時広(ときひろ)(?―1241)が長井荘、武藤氏平(うじひら)が大泉荘に任じられ、それぞれ西村山、置賜、庄内一帯を領有支配した。南北朝時代には各地で一族間の激しい対立がみられたが、1356年(正平11・延文1)北朝方の斯波兼頼(しばかねより)(?―1379)が羽州探題として山形に入部、村山一円を支配下に収めて最上氏を名のった。天正(てんしょう)年間(1573~1592)には山形の最上義光(よしあき)、米沢の伊達政宗(だてまさむね)、庄内の武藤氏らの領国をめぐる抗争が相次いだが、庄内は検地一揆(いっき)を起こした武藤氏を平定した越後の上杉氏の支配するところとなった。また、伊達氏は1591年(天正19)米沢から岩出山(いわでやま)(宮城県)へ移った。関ヶ原の戦い(1600)以後最上義光は現在の村山、最上地方と庄内全郡に領国を拡大し一大戦国大名に成長した。なお、平安末期から鎌倉時代にかけては、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山(ゆどのさん))などの山岳信仰が栄え、羽黒修験(しゅげん)の最盛期であった。

[中川 重]

近世

「出羽百万石」ともいわれ、東北の雄藩となった最上氏山形藩は義光死後内紛が続き、1622年(元和8)改易に処せられ、その後最上氏領は山形に鳥居忠政(ただまさ)(1566―1628、22万石)、鶴岡に酒井忠勝(14万石)、新庄に戸沢政盛(まさもり)(1585―1648、6万石)、上山(かみのやま)に松平重忠(しげただ)(1570―1626、4万石)といずれも譜代(ふだい)大名が入部し、とくに村山地方はその後寒河江、谷地(やち)、尾花沢などの幕府直轄領も加わり、藩領と天領が錯綜(さくそう)する非領国的な地域となった。そのうち庄内藩(鶴岡藩)と新庄藩は幕末まで定着するが、山形藩と上山藩は領主交代が激しかった。とくに山形藩は幕末までに13回もの交代があり、そのたびに減封されたために、最上時代に整備された広大な城下町も郭内はさびれる一方であった。一方、関ヶ原の戦いで豊臣(とよとみ)方についた上杉景勝(かげかつ)は会津120万石を没収、1601年(慶長6)米沢藩30万石に移封され幕末に至った。このほかに江戸中期以降、天童藩2万石、庄内藩の支藩松山藩などが立藩している。

 近世の初頭は庄内の青竜寺川や因幡堰(いなばぜき)、北楯(きただて)大堰、村山の高松堰、置賜の諏訪(すわ)堰、長堀(ながほり)堰などの用水堰の開削と新田開発が盛んに行われ、各藩の農業経済的な基礎が固められた。近世中期以降になると村山・置賜両地方では青苧(あおそ)、紅花(べにばな)、漆蝋(うるしろう)などの特産物が庄内米とともに最上川の舟運で酒田港まで下り、さらに西廻航路(にしまわりこうろ)で京・大坂へ出荷され、藩の財政を支える重要な商品作物となった。最上川舟運の発達は酒田を東国随一の港町に成長させるとともに、最上川流域には大石田や左沢(あてらざわ)、谷地(やち)など豪商の活躍する河港や河岸(かし)が発展した。近世後期になると、米沢は養蚕業が発達し織物の町として栄え、山形は紅花商人でにぎわい、鶴岡は魚問屋や米商人の多い所となるなど、地域の産業の中心的な機能を果たした。

[中川 重]

近・現代

庄内藩が官軍に降伏し戊辰(ぼしん)戦争が終わり、明治維新後いくつかの行政区画の変遷を経て、1871年(明治4)の廃藩置県後、置賜県、山形県、酒田県の3県になった。1875年酒田県が鶴岡県となり、翌年9月3県が合併して現在の山形県が成立した。初代県令三島通庸(みちつね)は県内の基幹道路や宮城県や福島県とを結ぶ峠路の隧道(ずいどう)開削などの改修工事を推進して、現在の道路網の基礎をつくった。また、山形県庁を中心とした新市街地を建設するとともに、青苧や紅花などの藩政期の特産物にかわって桑、茶、コウゾのほか果樹や蔬菜(そさい)類の試験栽培を行わせた。これが現在本県を代表する果実のサクランボ、西洋ナシ、ブドウ、リンゴなどの栽培が普及する端緒となっている。また庄内平野では明治中期ごろには乾田馬耕(かんでんばこう)の導入に伴う耕地整理事業が進み、米の品種改良や購入肥料の導入によって生産性が高まり、全国的な米作単作地帯として知られるようになった。1903年(明治36)奥羽線が新庄まで開通し、酒田線(現、陸羽西線)新庄―酒田間が1914年(大正3)に開通すると、商品輸送は完全に最上川舟運から鉄道に転換し、さらに大正年間には新庄線(現、陸羽東線)、長井線(現、山形鉄道フラワー長井線)、左沢線が開通し、灌漑(かんがい)用揚水機や織物工場などの産業用と電灯利用に供する電気事業が盛況を呈するに及んで、県内の地域経済社会は近代化へと大きく歩み始めた。第二次世界大戦後、1954年(昭和29)から町村合併促進法に基づいて町村合併を実施し、合併前の5市25町193村が1968年には13市27町4村になった。戦後いち早く策定された総合開発計画(第一次計画、1949~1953)により「やまがた総合発展計画」(2005~2015)が進められた。そこでは、人口減少、環境問題、経済のグローバル化などの時代の変化に対応した新しい施策を打ち出している。とくに地域力、経済力、基盤力を高めることを目標としている。

[中川 重]

産業

長い間、山形県の産業の主体は稲作を中心とした農業であった。しかし、1970年以降に造成された工業団地を中心に電気機器工業などの工場立地が進んでいる。2005年度の産業別就業人口をみると、就業者総数64万2580人のうち、第一次産業は11.1%(全国5.0%)、第二次産業34.8%(29.5%)、第三次産業54.1%(64.3%)となっている。さらに県内総生産(2004)の総額4兆1163億円のうち、第一次産業はわずかに3.1%を占めるにすぎず、第二次産業が27.8%、第三次産業が69.0%で、総額では20年前の1.5倍以上に増加しているにもかかわらず、第一次産業は大幅に減少している。このように本県の産業は農業依存から脱皮して、第二次、第三次産業への構造転換が急速に進行している。

[中川 重]

農林業

農家戸数は1960年の11万7146戸をピークに減少を続け、2005年には6万1567戸となり、1995年の7万5060戸から10年で1万3000戸の減少をみている。そのうちの専業農家は2000年までは著しく減少していたが、以後は微増傾向に転じ、占める割合も1995年の8.1%から2005年には13.1%に増加している。兼業農家では第一種兼業が25.6%、第二種兼業が61.3%で、第二種兼業の割合が減少している。農家人口も減少を続け、1995年の約37万人から2005年には約28万人と、10年間で25%減となっている。また、販売農家世帯員における65歳以上の割合は30.1%に達し、年々高齢化が進んでいる。経営耕地面積は12万4500ヘクタール(2006)で、内訳は田が9万7800ヘクタール、普通畑が1万2100ヘクタール、樹園地が1万1500ヘクタールで、いずれも減少傾向にある。耕作放棄地は3200ヘクタール(2005)に達し、農地の荒廃も進んでいる。農家1戸当りの生産農業所得は138万3000円(2005)で、全国平均より24万円上回っている。農業産出額(2005)のうち、米の占める割合は44.8%で、全国平均の23.0%を大きく上回っている。そのほか、果実20.0%、畜産15.0%、野菜14.3%となっていて、畜産の占める割合が上昇している。米の生産量は41万9000トンで全国第5位(2006)。稲作単作地帯として知られる庄内平野を中心に、10アール当りの収穫量はつねに600キログラム前後であり、全国のトップ水準を保持している。

 かつて養蚕業を支えた桑園にかわった果樹栽培は、本県の気候や土壌が落葉果実の栽培に適し、さらに第二次世界大戦以後、食料品缶詰工業が立地し果実加工が容易になったことから発展した。全国生産量の70%近くを占めるサクランボや西洋ナシが全国第1位のほか、ブドウが第3位、リンゴが第4位、モモが第5位以内と主要な落葉果実類が全国生産量の上位を占めている。果樹栽培の中心は山形盆地と米沢盆地の扇状地上や丘陵斜面で、カキは庄内地域が多い。

 畜産は、肉用牛の飼育が最上地域や置賜地域の山村地帯、ブタの飼育が庄内地域で盛んであったが、1980年代後半より飼育戸数・頭数ともに減少傾向にある。林業は全国一の蓄積量を誇る金山杉で知られる最上地域で盛んであるが、かつての薪炭生産にかわって山菜採取やナメコなどのキノコ栽培が盛んになり、山村地域の主要な所得源となっている。

[中川 重]

水産業

海岸線が約100キロメートルと短く、また単調で出入りが少ないので、酒田港以外に大規模港湾がなく、水産業は不振。漁業経営体数、魚獲高は東北地方で最下位である。沿岸漁業のスルメイカ・カニ類・タラ漁などが主で、ほかにアユやニジマス、ヤマメなどの内水面養殖が盛んになってきている。

[中川 重]

工鉱業

第二次世界大戦前には米沢織、鶴岡織や、置賜地域の製糸業、山形市の鋳物、打刃物生産などの在来工業のほかは、酒田市大浜地区や小国(おぐに)町の電力指向の化学工業がみられるにすぎなかった。大戦後は山形鋳物がミシン部品の製造に導入されて発展し、また食料品加工や木製家具製造などの地元資源利用の新しい工業が主として村山地域に芽生えた。1960年代に入り、栗子(くりこ)トンネルなどの主要幹線道路が整備されてからは、置賜地域を中心に電気機器工業などの弱電関連工場の進出立地が多くみられるようになり、業種構成に大きな変化が生じてきている。

 2005年(平成17)の製造品出荷額は2兆6702億円で、1995年の2兆6214億円から微増している。業種別にみると、情報通信23.5%、電子部品14.8%、一般機械と食料品がともに10.2%などとなっている。1980年と比べると食料品、繊維が減ってエレクトロニクス関連や機械類が著しく伸長している。この要因は、機械金属工業などの一定の集積や豊富な労働力、工業団地の造成や道路改修などの基盤整備が企業誘致に結び付いたものといえる。

 従業者4人以上の事業所数3428(2005)、総従業者数11万2472人のうち、村山地域がともにもっとも多く、それぞれ全体の43%前後を占めている。山形市を中心に電気機器、機械金属、食料品、木製家具など各種の工場立地がみられ、県内最大の工業地区を形成している。工場数、従業者数ともに約27~28%を占める置賜地域は、米沢織の盛んな米沢市や長井市に繊維工業がみられるほか、電気機器工場が各地に進出している。また、本県唯一の貿易港をもち、かつては県内第一の工業生産額があった酒田市を中心とした庄内地域の工業は、現在工場数、従業者数とも約22~23%を占めている。しかし、酒田大浜臨海工場地区の化学工業が停滞し、1974年に開港した酒田北港の臨海地区への工場立地も予定どおり進まず、県内での工業生産比率をこれ以上低下させないよう、精密工業などの工場誘致を積極的に行っている。

 全国的にみて県内生産量が比較的多い特産品とその主産地としては、全国生産量の大半を占める天童市の将棋駒(こま)と木工家具、山形市の鋳物・打刃物・仏壇、山形・寒河江両市と山辺(やまのべ)町のメリヤスと山辺町のじゅうたん、河北(かほく)町のスリッパなどが数えられる。山形鋳物、山形仏壇、置賜紬、天童将棋駒、羽越しな布は国の伝統的工芸品に指定されている。

 山形県の鉱業は、エネルギー革命までは全国有数の生産量を誇った最上地域の亜炭鉱山や金属鉱物を採掘する鉱山があったが、1970年代までにほとんど閉山・廃鉱となり、現在は非鉄金属の採掘がわずかにみられるにすぎない。

[中川 重]

開発

農業県といわれてきた本県の開発は、第二次世界大戦までは主として耕地整理や農業用水堰(ぜき)の開削であった。戦後の1960年代までは積雪量が多い朝日山地赤川水系の水力発電開発などが盛んに行われた。1970年代後半に入り工業立地が盛んになるとともに、山形市の立谷川(たちやがわ)工業団地をはじめとする多くの工業団地の造成がみられるようになった。とくに県内の4地区ごとにそれぞれ大規模な拠点工業団地を造成し、工業化を促進する計画が進められ、米沢八幡原(はちまんばら)、東根(ひがしね)大森、新庄福田、酒田遊佐、鶴岡中央の5拠点工業団地が誕生した。とくに東根大森工業団地は県内でもっとも工業集積の進んだ村山地域に位置し、山形空港にも近く交通条件に恵まれ、ハイテク関係の企業立地が進んだ。1987年(昭和62)には山形テクノポリス地域が指定され、先端型工業の開発拠点として整備されることとなった。

[中川 重]

交通

周囲を山地で囲まれ、また出羽山地によって内陸と庄内とに隔てられている本県では、近代的な交通網の発展は地形上の障害の克服と冬季間の豪雪との闘いによって可能となったともいえる。藩政時代の最上川舟運にかわって、明治前期には栗子峠や関山峠などの開削工事が行われ、現在の道路網の基礎が築かれた。鉄道は1901~1904年にかけて奥羽本線が開通、その後大正年間に陸羽西線、羽越本線をはじめ現在のJR線網が形成されたが、電化や複線化などの輸送力の増強が図られたのは第二次世界大戦後であった。一方、1960年代後半からは峠路の道路改修工事が進み、県外との広域的な経済圏の拡大に寄与した。東北横断自動車道酒田線(山形自動車道)の山形―寒河江(さがえ)間が開通。東京、大阪、札幌、名古屋、福岡の5路線(開港当時)がある山形空港に加えて、庄内空港の開港(1991)や奥羽本線のミニ新幹線が開業(1992)するなど、ようやく高速交通体系網に組み入れられた。2000年には山形ミニ新幹線は新庄まで延伸された。山形自動車道は鶴岡ジャンクションで日本海東北自動車道と接続し(一部は国道112号)、東北中央自動車道とは山形ジャンクションで接続している。

[中川 重]

社会・文化

教育文化

江戸時代の藩校は1697年(元禄10)に米沢藩で興譲館(こうじょうかん)が開設されたのがもっとも早く、ついで新庄藩の明倫堂(めいりんどう)、庄内藩の致道館(ちどうかん)などが開設され、寺子屋や私塾は数百に達していたといわれる。明治に入ると鶴岡の洋学所や米沢の洋学舎ができ、一方、置賜地方では郷学校がつくられ、1872年(明治5)の学制発布後の小学校の基盤となった。1889年鶴岡の私立忠愛小学校では全国最初の学校給食が開始され、明治末から大正にかけては女学校生徒数の人口比が全国一を占め、小学校就学率が全国上位に位置するなど、有数の教育県といわれる基礎が固められた。昭和初期には村山俊太郎(としたろう)(1905―1948)、国分一太郎(こくぶんいちたろう)らが「生活綴方(つづりかた)」教育を実践して北方性教育運動をおこし、その伝統は第二次世界大戦後に全国で爆発的な反響を呼び起こした無着成恭(むちゃくせいきょう)(1927―2023)の『やまびこ学校』を生んだ。

 高等教育機関としては、1920年(大正9)山形高等学校が創立され、戦後、新制大学として誕生した国立の山形大学(人文、理学、地域教育文化、工学、農学、医学の6学部)の母体となった。1992年(平成4)には公設民営の東北芸術工科大学(山形市)が開校し、その後も1993年に県立産業技術短期大学校(山形市)、2000年(平成12)に県立保健医療大学(山形市)、2001年に東北公益文科大学(酒田市)が、2010年には、私立山形短期大学を発展的改組させる形で東北文教大学が短期大学部をあわせて新設された。ほかに短期大学には県立米沢女子短期大学、羽陽(うよう)学園短期大学と、鶴岡工業高等専門学校がある。大学数が増えたため、高卒の進学率は向上したが、2008年は45.1%で全国平均の52.8%より下回っている。なお、大学のほかに慶応義塾大学先端生命科学研究所、産学官連携有機エレクトロニクス事業化推進センターが設置されている。文化、社会教育施設としては、県立図書館、教育資料館分室をもつ県立博物館や県郷土館(文翔館)のほか、私立の山形美術館、本間(ほんま)美術館(酒田市)、致道博物館(鶴岡市)などがあり、また各地に郷土、歴史、民俗等の資料館がある。

 新聞は『山形新聞』が1876年に発刊されたのをはじめ、『庄内新聞』『米沢新聞』などが明治初期に発刊されたが、その後昭和初期まで諸紙の合併、廃刊が繰り返された。戦時統合(第二次世界大戦時)で一県一紙となった『山形新聞』は、県内で最大の発行部数21万0147部(2007)をもつ。ほかに米沢市の『米沢新聞』、鶴岡市の『荘内日報』の日刊紙がある。放送機関としては、NHK山形放送局、山形放送、山形テレビ、テレビユー山形、エフエム山形、さくらんぼテレビジョンなどがある。

[中川 重]

生活文化

置賜、村山、最上の内陸3盆地と庄内平野は地理的条件や歴史的背景が異なり、それぞれ独自の文化圏を形成してきた。方言をみても、敬語の発達した置賜地方、使用地域が狭い語がみられる村山地方、北奥・南奥両方言の特色をもつ最上地方、濁音訛(か)が多く関西的な語尾の「ノー」使用がみられる庄内地方というように地域的特色がみられる。

 伝統的な民俗文化や民俗芸能を年中行事でみると、200年以上の歴史をもつ山形市の初市(1月10日)、中世から受け継がれてきた鶴岡市(旧櫛引(くしびき)町地域)の農民芸能黒川能(国の重要無形民俗文化財)が奉納される王祇祭(おうぎさい)(2月1~2日)や、酒田市黒森の農民が演ずる黒森歌舞伎(かぶき)(2月15~17日)、東北一の植木市でにぎわう山形市薬師祭(5月8~10日)、酒田の総鎮守日枝(ひえ)神社の山王祭(5月19~20日)、またぎの習俗を伝える小国町長者原の熊(くま)祭り(5月中旬)、独特の謡と舞が奉納される遊佐町の杉沢比山(すぎさわひやま)(国の重要無形民俗文化財)、豪華な山車(やたい)とリズミカルな囃子(はやし)が街を練り歩く新庄まつり(8月24~26日。山車行事は国指定重要無形民俗文化財で、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録)、9世紀末からと伝える一子相伝の林家舞楽(国の重要無形民俗文化財)が奉納される河北町谷地どんが祭り(9月敬老の日を含む3連休)などがある。また、出羽三山では五穀豊穣(ほうじょう)などを願う行事の花祭り(7月15日)、八朔祭り(はっさくまつり)(8月31日)、松例祭(しょうれいさい)(大晦日(おおみそか)。国の重要無形民俗文化財)が行われ、多くの信者が参拝、山岳信仰の深さを物語る。

 このような伝統を継承する民俗的行事に加えて、蔵王樹氷祭り(2月上旬)、全国一の将棋駒の生産地天童市の人間将棋(4月下旬)、川中島合戦が催される米沢上杉祭り(4月29~5月3日)、100万本のアヤメが咲き競う長井あやめ祭り(6月下旬~7月上旬)、花笠音頭(はながさおんど)パレードが繰り広げられる山形花笠まつり(8月5~7日)、数百のかかしが展示される上山かかし祭り(9月上旬)など、観光的な祭りも盛んである。

 国指定重要文化財のうち著名なものは、国宝では羽黒山五重塔があり、出羽三山にはほかに羽黒山正善(しょうぜん)院黄金堂(重要文化財)、羽黒山三神合祭殿及び鐘楼(重要文化財)、祭殿前の御手洗(みたらい)池から出土した銅鏡190面(重要文化財)、羽黒山スギ並木(特別天然記念物)などがあり、かつて栄えた三山信仰がしのばれる。芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』の「閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声」で有名な山寺立石寺(りっしゃくじ)(山形市)は国の名勝・史跡に指定され、中堂や三重小塔(いずれも重要文化財)がある。

 そのほか、国の重要文化財としては、行基の開山と伝えられる本山慈恩寺本堂(寒河江市)や若松寺観音(かんのん)堂(天童市)、多層民家の旧渋谷家住宅(鶴岡市致道博物館)など5棟の民家、1878年医学教育施設として創建された木造三層楼の旧済生館本館(山形市)などがある。また同じ重要文化財である旧県庁舎および県会議事堂が修復されて、県政や県土のあゆみなどを展示した県郷土館「文翔館」として公開されている。国指定史跡には日向洞窟(どうくつ)(高畠町)、出羽国府跡といわれる城輪柵跡(きのわのさくあと)(酒田市)、東北有数の銀山だった延沢銀山遺跡(のべさわぎんざんいせき)(尾花沢市)などがある。

[中川 重]

伝説

出羽三山を開山したのは崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子「蜂子皇子(はちのこのみこ)」と伝えられる。皇子は父帝を蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺され、自らも一命が危うくなったので陸奥(みちのく)に逃れ、羽黒山で難行苦行を積んでついに神仙になったという。その御陵は羽黒山頂にある。その奇跡伝説は羽黒山、湯殿(ゆどの)山、月山(がっさん)の三山にわたっている。蜂子皇子の伝説は貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)であるが、「順徳上皇(じゅんとくじょうこう)」伝説も同様である。討幕に失敗した上皇は佐渡に配流された。機をみて島を脱出し出羽国西置賜(にしおきたま)郡小国(おぐに)町舟渡(ふなと)に至り、さらに村山地方へ移り尾花沢市正厳(しょうごん)、のちに御所(ごしょ)神社となった所に宮居(みやい)を定めた。丹生(にう)の天子塚は上皇の御陵と信じられている。「義経伝説(よしつねでんせつ)」も多い。平泉へ落ちる義経一行のなかに北の方がいたが、途中で産気づき、弁慶が瀬見(せみ)温泉で若君に産湯をつかわせたという。上山(かみのやま)市石崎神社の境内には義経休み石があり、最上と庄内との境の酒田市柏谷沢(かしわやざわ)には弁慶がぬれた腹巻を干したという腹巻岩がある。弁慶の大笈(おおおい)が西村山郡朝日町の大沼浮島稲荷(いなり)に保存されているという。西村山郡西川町本道寺(ほんどうじ)の八楯山(やつたてやま)は陸奥(みちのく)鎮定の命を受けた八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)と安倍貞任(あべのさだとう)の軍勢の激戦地だった所で、矢立て石、八幡坂、弓張平(ゆみはりだいら)、矢引沢(やびきさわ)、征矢形(そやがた)などの地名が残っている。安倍貞任は大鳥川沿いの茅峰(ちのみね)で討ち死にしたという。貞任には娘があり義家に恋慕していたが、父が討たれたのを知って恨み長井市西根の三淵(みつぶち)に身を投げたという。その霊を鎮めた宮が総宮(そうみや)神社である。米沢市小野川には「小野小町(おののこまち)」の伝説がある。小町は行方が知れぬ父の出羽郡司小野良実(よしざね)を訪ねて小野川郷に至り、霊夢で温泉を発見し、それが現在もある共同浴場尼(あま)の湯のおこりといわれ、小野川温泉も小町にちなむ地名という。この地で父に巡り会い、薬師堂を建てたといわれる。米沢市塩野にある美女塚は小町の墓所と伝える。東田川郡庄内町に「千河原(ちがわら)」という所があるが、かつては血河原とよばれ、応神(おうじん)天皇の皇子大山守皇子(おおやまもりのみこ)ゆかりの地である。皇子は皇位をねらったという疑いをかけられて陸奥に流され、舟で最上川を下り千河原に上陸したところを刺客に討たれ、河原を血で染めた。慰霊のために里人が建てたのが余目(あまるめ)の千河原八幡宮であるという。山形市山寺に立石寺(りっしゃくじ)を開いた慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)の伝説も数多い。山寺はもと死後他界の山の信仰があった地で、大師伝説とまたぎの祖「磐次磐三郎(ばんじばんざぶろう)」伝説との混交がみられる。大師お手かけ石、笠(かさ)投げ石、独鈷(どっこ)水、大師つぶて石、対面石、磐次矢とぎ清水、弓かけの松、矢投げ沢などがある。独鈷水は、大師が独鈷を持って加持祈祷(きとう)すると一夜のうちに清水が山上に湧(わ)いたという伝説である。高僧伝説は慈覚大師だけではない。弘法(こうぼう)大師空海(くうかい)の足跡もこんな所までにと思うほど広い。米沢市の塩野は塩の乏しい所で、大師が錫杖(しゃくじょう)を持って井戸を掘ると塩水が出たという。鶴岡市田麦俣(たむぎまた)の柳清水、同市の八久和(やくわ)川と梵字(ぼんじ)川の合流点の舟岩など、その影響は多い。

[武田静澄]

『『山形県史』通史編全5巻・各論編6巻・資料編20巻(1968~1987・山形県)』『『山形県の文化財』(1972・山形県教育委員会)』『『角川日本地名大辞典6 山形県』(1981・角川書店)』『『新山形風土記』全3巻(1982・創土社)』『『山形県大百科事典』(1983・山形放送)』『『日本歴史地名大系6 山形県の地名』(1990・平凡社)』『横山昭男他著『山形県の歴史』(1998・山川出版社)』



山形(市)
やまがた

山形県中央部東寄り、山形盆地の南部に位置する市。県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。1943年(昭和18)鈴川(すずかわ)、千歳(ちとせ)の2村、1954年(昭和29)飯塚、椹沢(くぬぎざわ)、滝山(たきやま)、東沢、南沼原、高瀬、楯山(たてやま)、出羽(でわ)、明治、大郷(おおさと)、金井(東村山郡)、金井(南村山郡)の12村、1956年大曽根(おおそね)、蔵王(ざおう)、村木沢、柏倉門伝(かしわぐらもんでん)、本沢(もとさわ)の5村を編入。2001年(平成13)に特例市、2019年に中核市に移行。JR奥羽本線と国道13号が市域を縦断し、JRの仙山線(せんざんせん)、左沢線(あてらざわせん)を分岐する。庄内(しょうない)地方と結ぶ国道112号、仙台市へ通じる286号、長井市へ通じる348号が東西に延び、458号が西部を縦断する。1989年(平成1)山形自動車道(山形北―寒河江(さがえ)間)が開通し、現在は関沢、山形蔵王、山形北の3インターチェンジが設置されている。1992年には在来線を改良した山形新幹線が開業し、首都圏と高速交通で結ばれた。2002年には山形ジャンクションで山形自動車道と交差する東北中央自動車道(山形上山―東根間)が開通、山形上山、山形中央の2インターチェンジが設置されている。面積381.30平方キロメートル(一部境界未定)、人口24万7590(2020)。

[中川 重]

自然

市域の東側は、蔵王山、雁戸山(がんどさん)、面白山(おもしろやま)などが南北に連なる奥羽山脈で宮城県と境され、西側は出羽(でわ)山地に属す白鷹丘陵(しらたかきゅうりょう)が横たわる。奥羽山脈から流下する馬見ヶ崎(まみがさき)川や立谷(たちや)川は、山形盆地東半部に扇状地を形成し、盆地中央を北流する須(す)川に合流する。内陸性気候が顕著で、気温の較差、とくに夏と冬の寒暖差が大きい。1933年(昭和8)には日最高気温40.8℃を記録し、これは2007年に岐阜県多治見(たじみ)市と埼玉県熊谷(くまがや)市が40.9℃を記録するまでは日本における観測史上最高気温であった。降水量は年間を通じて比較的少なく、積雪量も県の内陸平地ではもっとも少ない。

[中川 重]

歴史

山形市が内陸地方の中心となるのは、1356年(正平11・延文1)に斯波兼頼(しばかねより)が出羽按察使(あぜち)として入部し、馬見ヶ崎川扇状地扇端部に築城してからである。その後、斯波氏の子孫で戦国大名の最上義光(もがみよしあき)が扇端から扇央にかけて城下の整備を行い、山形藩57万石の城下町の基礎をつくった。1622年(元和8)最上氏の改易後は13回も領主交代があり、幕末には水野氏5万石にまで減少した。このため侍町は衰微したが、町屋は紅花(べにばな)などの集散地となり紅花商人が活躍する村山郡最大の商業地として発展した。1876年県庁が設置され、初代県令三島通庸(みちつね)による近代的な街づくりが県庁周辺にかけて行われた。以来、県の行政、経済、文化などの中心として発展、第二次世界大戦後は区画整理事業による市街地の拡大が著しい。

[中川 重]

産業

工業は事業所数は県内第1位、従業者数は第3位、製造品出荷額は第5位である(2011)。電子機器、金属機械、繊維織物工業などのほか、900年の歴史をもつ山形鋳物をはじめ、藩政時代からの伝統を受け継ぐ打刃物、仏壇、平清水(ひらしみず)焼などの地場産業がある。とくに現在では自動車部品製造を主とする鋳物工業が、第二次世界大戦後はミシン部品の生産で活況を呈した。西部工業団地には鋳物やめっき工場が集団移転し、立谷川工業団地は機械工場が多い。なお、山形鋳物、山形仏壇は国の伝統的工芸品に指定されている。

 中心商店街は七日町(なのかまち)地区と山形駅前地区に分かれるが、その商圏は村山地方一円から最上、置賜(おきたま)地方にも広がっている。周辺農村部では米作のほか、野菜のハウス栽培やブドウ、さくらんぼなどの果樹栽培が盛んで、肉用牛(山形牛)の肥育も行われている。

[中川 重]

観光・文化

東部の宮城県境一帯は蔵王国定公園域で、樹氷、良質の雪、変化に富んだコースで知られる蔵王スキー場や蔵王温泉があり、年間150万人の観光客が訪れる。市の北東部には芭蕉(ばしょう)の句「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声」で知られる山寺立石寺(りっしゃくじ)(国指定名勝・史跡)がある。慈覚大師円仁(えんにん)の開基で、室町時代の中堂、三重小塔は国指定重要文化財。市の中心部にある山形城跡(国指定史跡)は現在霞城公園(かじょうこうえん)となり、園内には県立博物館、体育館などがあり、市郷土館は旧済生館本館(きゅうさいせいかんほんかん)(国指定重要文化財)で1879年建造の洋風建築。このほか国指定重要文化財に旧山形師範学校本館(1901年建造、現在は教育資料館)、山形県旧県庁舎および県会議事堂(1916年建造)、鎌倉時代の石造明神鳥居2基(元木・成沢両八幡(はちまん)神社)、安土(あづち)桃山時代の旧松応寺観音堂(きゅうしょうおうじかんのんどう)、国指定史跡に古墳後期の集落跡嶋遺跡(しまいせき)がある。専称(せんしょう)寺は最上義光が娘駒姫(こまひめ)の菩提(ぼだい)を弔った寺として知られる。そのほか、サッカー場やスケートリンクなどを備えた総合スポーツセンター、山形美術館、国際交流プラザなどの文化施設や、山形大学、東北芸術工科大学、県立保健医療大学もある。行事には市日の名残(なごり)をとどめる初市(1月10日)、国分寺薬師堂の祭礼で催され、東北一の規模を誇る植木市(5月8~10日)、花笠まつり(はながさまつり)(8月5~7日)、秋、馬見ヶ崎川河原で行われる芋煮会(いもにかい)などがある。

[中川 重]

『『山形市史』6巻(1971~1981・山形市)』『『やまがたの歴史』(1980・山形市)』



山形
やまがた

岩手県北部、九戸郡(くのへぐん)にあった旧村名(山形村(むら))。現在は久慈(くじ)市の西部を占める地域。2006年(平成18)久慈市に合併。北上(きたかみ)高地の北部にあり、旧村域の約95%が山林原野。国道281号が通じる。かつては木炭王国として知られたが、近年は短角牛の飼育が盛ん。久慈川水系の川井川、日野沢川、戸呂町(へろまち)川の流域に畑作中心の集落が点在する。シラカバとツツジの平庭高原(ひらにわこうげん)、奇岩と清流の久慈川渓流は久慈平庭高原県立自然公園に属し、小国(おぐに)の内間木鍾乳洞(うちまぎしょうにゅうどう)は県指定天然記念物。

[金野靜一]

『『山形村誌』複製本(1968・山形村)』


山形(村)
やまがた

長野県中央部、東筑摩郡(ひがしちくまぐん)の村。松本市からバスで約30分の距離にある。松本盆地の南西部に位置し、東流する鎖川(くさりがわ)の扇状地上にあるため水に乏しく開拓が遅れ、大正ごろから畑地化された。昭和20年代までは林地と桑園であったが1970年(昭和45)ごろから用水路がつくられ、長イモ、ソバなどのほかトマト、レタス、セロリなどの高冷地野菜産地になった。面積24.98平方キロメートル、人口8400(2020)。

[小林寛義]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「山形」の意味・わかりやすい解説

山形[県] (やまがた)

基本情報
面積=9323.46km2(全国9位) 
人口(2010)=116万8924人(全国35位) 
人口密度(2010)=125.4人/km2(全国42位) 
市町村(2011.10)=13市19町3村 
県庁所在地=山形市(人口=25万4244人) 
県花=ベニバナ 
県木=サクランボ 
県鳥=オシドリ

東北地方南西部に位置する県。北は秋田県,東は宮城県,南は福島県,南西は新潟県に接し,西は日本海に臨む。

県域はかつての出羽国南部,明治の分国後は羽前国全域と羽後国の一部にあたり,江戸時代末期には山形藩,長瀞(ながとろ)藩,天童藩,新庄藩,上山(かみのやま)藩,庄内藩,松山藩,米沢藩,米沢新田藩と飛地,天領が入り組んでいた。1868年(明治1)戊辰戦争後出羽国は羽前・羽後両国に分割され,奥羽越列藩同盟に参加した多くの藩は,領地を削減された。また旧天領や庄内藩領に柴橋・尾花沢・酒田各民政局が置かれていたが,翌69年酒田県となって旧天領および没収地を管轄した。一方,長瀞藩は69年上総国大網へ,山形藩は70年近江国朝日山へ移され,1869年には再度の転封命令を免れた庄内藩は大泉藩,松山藩は松嶺藩と改称した。70年酒田県に旧長瀞・山形両藩と飛地とをあわせた山形県が成立,71年廃藩置県を経て天童県を併合した。同年米沢県は置賜(おきたま)県と改称,また山形・松嶺両県の一部と,新庄・上山両県が山形県に,同じく山形・松嶺両県の一部と大泉県が酒田県になり,現県域は3県に統合・整理された。75年酒田県は鶴岡県と改称,次いで76年山形県が鶴岡・置賜両県を併合して現在に至っている。

先縄文時代の遺跡が比較的多く調査されている。上屋地(かみやち)遺跡(西置賜郡飯豊町)B地点では礫層中から礫器や尖頭器などが,A地点では片刃石斧を含む旧石器時代終末期の石器群が出土している。越中山遺跡(鶴岡市)のA地点では両面加工の尖頭器を中心に彫器や掻器など,K地点ではナイフ形石器など,S地点では細石刃および細石刃核,彫器,掻器などが出土している。石材はいずれも硬質ケツ岩が多い。金谷原(かなやつばら)遺跡(寒河江市)では石刃石器群が明らかにされ,いわゆる金谷原型ナイフ形石器の標式遺跡となっている。小国東山(おぐにひがしやま)遺跡(西置賜郡小国町)は東山型ナイフ形石器の標式遺跡。弓張平遺跡(西村山郡西川町)ではナイフ形石器と有舌尖頭器を中心とする石器群が層位的に出土する。

 高畠町洞窟群(東置賜郡高畠町)は同地に分布する洞窟・岩陰の総称で,縄文時代草創期の日向(ひなた)洞窟や一ノ沢岩陰,早期中葉の尼子第Ⅱ岩陰,それに晩期末~続縄文期の観音岩洞穴などがある。吹浦(ふくら)遺跡(飽海郡遊佐町)は前期末,吹浦式土器の標式遺跡である。

 古墳ではまず稲荷森(いなりもり)古墳(南陽市)があげられる。全長約96mの前方後円墳で,後円部は3段築成で葺石(ふきいし)をもち,5世紀代の米沢盆地における有力首長の墓として重要である。長さ3.8mの刳抜式割竹形木棺と弓,竹櫛,曲物,石釧(いしくしろ)などの副葬品をもち,墳丘周囲に丸太を垣のように打ち込んでめぐらすなど特異な古墳として知られる漆山(うるしやま)2号墳(山形市)は衛守塚(えもりづか)とも呼ばれ,径約13m,5世紀代の円墳である。大之越(だいのこし)古墳(山形市)は径15mの円墳。箱形石棺2基をもち,武器,武具,馬具,工具を出土した。5世紀後半に山形盆地一帯を支配した首長墓であろう。赤湯古墳群(南陽市)は置賜盆地の北東に分布する小古墳群から成る。そのうち二色根(にろね)2号墳は径10mの円墳で,横穴式石室内から人骨,和同開珎,青銅銙帯金具,鉄刀,鉄鏃,須恵器などが出土し,他の古墳からは蕨手刀の出土も知られ,全体として古墳時代後期から奈良時代に及ぶ東北地方の代表的群集墳である。

 嶋遺跡(山形市)は古墳時代~奈良時代の集落遺跡。住居や高床倉庫など10棟が確認され,東北地方の第5型式に比定される土師器をはじめとして,建築材などや櫛,玉類などの装身具が出土している。7世紀後半から8世紀という年代が考えられている。出羽国府址かとされる城輪柵(きのわのさく)址(酒田市)は庄内平野北部の平たん地に立地し,東西716m,南北707mの方形の柵址の各辺中央には八脚門,四隅には角楼を配してある。内郭には正殿,後殿,脇殿が配置され,それらを囲んで方形の築地がめぐる。遺物としては土器,瓦,硯,緑釉・灰釉陶器などがある。平安時代としてよいであろう。
出羽国
執筆者:

県域のほぼ中央部を貫流する最上川は,山形県の母なる川と呼ばれている。その流域面積は県域の76%を占め,しかも県内だけを流れる〈1県1河川〉という特徴をもつ。上流から米沢,長井,山形,尾花沢,新庄の内陸諸盆地を,峡谷部をはさみながら数珠状に結んで北流し,新庄盆地で西に向きを変え,出羽山地を最上峡で横断して下流に広大な庄内平野を形成し日本海に注ぐ。上・中流域に開けた内陸諸盆地は扇状地がよく発達し,山形盆地の東半を占める馬見ヶ崎(まみがさき)川,立谷(たちや)川,乱(みだれ)川の三大扇状地が代表的である。五百川(いもがわ)峡谷(長井盆地~山形盆地間),碁点峡(山形~尾花沢間,三難所ともいう),最上峡はかつて盛んであった舟運の難所で,最上川が日本三大急流の一つといわれるゆえんをなす。庄内平野の大部分ははんらん原よりわずかに高い三角州性の低地で,南部に赤川の扇状地が広がる。

 これらの内陸盆地や平野を囲んで東部の宮城県との県境には奥羽山脈を構成する神室(かむろ)山地と船形山,蔵王山の両火山が連なり,県南には奥羽山脈中の吾妻火山と越後山脈中の飯豊(いいで)山が東西に標高1000~2000m級の連山となって福島県との境界をなす。内陸盆地列の西側には出羽山地の月山(がつさん),葉山の両火山があって県域を大きく内陸と庄内とに二分し,庄内平野の北端には出羽山地の最高峰鳥海山が孤立し,丁岳(ひのとだけ)山地に続き秋田県と隔てられる。新潟県と接する県域西部は,飯豊(いいで)山とともに同じ花コウ岩の隆起地塊である朝日山地が越後山脈の北端を占める。月山に続くこれらの山地は日本有数の豪雪地で,その豊富な水源のために多くのダムがあり電源地帯となっている。

 気候上は日本海側気候に属し,周囲の山なみによって盆地,平野ごとにかなりの差がみられる。内陸の諸盆地は内陸性気候で,寒暑の差および昼夜の気温差が大きい。とくに山形盆地の夏は暑く,1933年7月25日には40.8℃の日本最高気温を記録している。しかし朝日山地と出羽山地によって冬の季節風がさえぎられ,積雪量は少ない。一方,冬の季節風が荒川河谷や最上峡の横谷を通って吹き込む米沢盆地や新庄・尾花沢両盆地は北陸地方に比肩する豪雪地で,根雪期間も長い。日本海に面する庄内平野は内陸より温暖であるが,冬は季節風が強く,しばしば地吹雪が道路交通の大きな障害となる。

県内の産業別就業人口(1992)の内訳をみると,第1次産業13.6%,第2次37.6%,第3次48.9%となっている。農業は県の基幹産業ではあるが,県内純生産では10%に達せず,農業人口は減少の一途をたどっている。農業生産の主体は米作と果樹栽培で,米作は全国で5位(1996)の収穫量を占め,果樹生産はミカンなど暖地性のものを除くほとんどの種類を栽培している。江戸時代より庄内米の産地として知られた庄内平野は,県内の水田面積の約4割を占め,水田率が9割と高率で,1戸当り平均経営耕地面積も1.8haと広く,日本の代表的な水田単作地帯である。江戸時代に北楯大堰などの大規模な灌漑事業が行われ,明治に入るといち早く乾田馬耕が導入され,土地改良や基盤整備が進んだ。また篤農家によって発見された〈亀ノ尾〉などの品種改良が行われてきた。今日の機械化や大規模経営,またササニシキを中心とする高収量高品質米の主産地として全国に名を成しているのもそれらの積年の努力の結果である。庄内平野は作付面積,生産量とも県内最大であるが,10aあたり収量をみると,夏季に高温に恵まれる山形盆地が最も土地生産性が高く,山形県が毎年全国1~2位の高収量をあげる中核となっている。

 山形県で生産される果樹は栽培面積と生産量において全国の上位を占めるものが多い。全国生産量(1995)の65%を産するオウトウ(サクランボ)を筆頭に,西洋ナシが全国生産量第1位,ブドウが3位,リンゴが3位など全国有数の生産量をあげており,果樹王国というにふさわしい主産地を形成している。果樹栽培の最も盛んな地域は,山形盆地を中心とする村山地方で,県全体の果樹面積のほぼ70%が集中し,リンゴ,ブドウ,オウトウをはじめ多くの種類の果樹が複合的に栽培されている。近世の主産物であった紅花や青苧(あおそ)(カラムシ),明治中期ごろの桑の栽培に代わって明治30年代から果樹栽培が盛んになった。これは夏季生育期間の高温少雨や,昼夜の気温較差が大きく風が弱いなどの内陸性気候に加えて,乱川扇状地や立谷川扇状地,寒河江(さがえ)川扇状地などの排水のよい砂礫質土壌といった自然条件に恵まれ,1901年奥羽本線山形駅が開設されたことなどによる。第2次大戦後は朝日町や大江町のリンゴ栽培のように丘陵地への拡大もみられ,寒河江や天童には缶詰などの加工工場も設置され,市場条件の不利を補っている。山形盆地では果樹のほか,全国一の生産と栽培面積をもつホップ栽培や,近世から栽培されているタバコなどの換金作物の生産も盛んである。山形盆地に次ぐ果樹生産地は置賜(おきたま)地方で,その核心地はデラウェア種の導入で最も早くブドウの主産地を形成した南陽市赤湯地区や,西洋ナシの主産地高畠町屋代地区などである。また近年月山山麓の丘陵地などで栽培面積の増加した庄内柿(平核無(ひらたねなし)と呼ばれる)は主として北海道などに出荷される。

山形県の工業は,出荷額でみると東北6県では福島,宮城に次ぐ地位にあるが,全国的にみればまだかなり低水準にある。第2次大戦前の山形県の工業は,米沢藩以来の伝統を受けつぐ米沢織物や明治中期から大正期に繁栄した製糸業など置賜地方の繊維工業,ならびに山形市の鋳物・打刃物製造などの伝統工業に加えて,昭和10年代に酒田市大浜臨港地区に形成された化学工場群などが目だつ程度であった。戦後になると,これらに加えて山形市や山辺町のメリヤス工業,寒河江市や天童市の食品加工業,山形市のミシン製造などが盛んになった。1960年代後半に入ると,国道13号線など幹線道路の整備と工業団地造成が進み,弱電関係を中心とする進出工場の立地が相次いで,本県の工業構成は繊維・食品・化学中心から電機や機械など高付加価値の製造業へと比重が移ってきた。県内で最も工業集積の進んだ地域は,県内最大の工業出荷額を有する米沢市(5012億円,1995)で,八幡原工業団地も造成され,電機,機械工業が大きく成長しており,山形市を中心とする村山地方がこれに次いでいる。工業団地では山形市内の工場を移転した立谷川工業団地のほか,山形空港に近い東根市の大森拠点工業団地などにIC関連工場の進出が相次いでいる。拠点工業団地は,ほかに木材家具工業,電機工場の進出している最上地方の新庄・福田地区が開発されており,今後の発展が期待されている。本県唯一の臨海工業地区を形成していた酒田市は,1974年新たに5万トン岸壁を有する酒田北港を建設して,酒田・遊佐工業団地を造成したが,住軽アルミの撤退後は電機,機械工業などが進出している。その他,生産量や生産額は少ないが県内の代表的工業製品としては天童市の将棋駒,山辺町のじゅうたん,河北町の草履表から転換したスリッパなどの地場産業があり,全国市場に出荷している。

近世までの幹線道路は羽州街道で,参勤交代に利用された。しかし経済活動上,最も大きな地位を占めたのは,庄内米の積出港であった酒田港と,内陸部からの庄内米の輸送に利用された最上川の舟運である。最上川舟運に代わって明治中期から始まった近代的交通の発展は,内陸部の分断された盆地や平野を結ぶ峠道の改修と多雪との闘いであったといえる。明治初期に初代県令三島通庸による栗子峠や関山峠,磐根街道の開削は現在の峠路の基礎を築き,奥羽本線の開通(1904)や陸羽西線の開通(1914)などが県内外との地域結合を確立した。奥羽本線と国道13号線は内陸部を南北に走り,米沢,山形,新庄などの都市を結び,庄内では羽越本線,国道7号線が南北に通じて酒田市と鶴岡市を結んでいる。これらの南北に縦貫する幹線交通路を東西に連絡する陸羽西線,米坂線や国道47号,112号,113号線が奥羽山脈を横断して格子状の交通網を形成している。太平洋岸地域とは仙山線や陸羽東線,国道48号線などで連絡している。また奥羽本線の山形~福島間を改軌して,1992年山形新幹線が開通した。現在は,286号線の笹谷峠が完成し,また仙台~山形~酒田を結ぶ山形自動車道も建設されている。東根市に山形空港があり,91年酒田市に庄内空港が開港した。

 県域は自然景観に恵まれ,吾妻火山,出羽三山などを含む磐梯朝日国立公園,蔵王国定公園,鳥海国定公園,栗駒国定公園などを擁し,県立の自然公園を含めるとその面積は県域の17%に達する。山岳観光道路やスキー場の開発も進み,100湯を超える温泉とともに県内外から多数の観光客を集めている。

県内は地勢上,山形盆地,米沢盆地,新庄盆地をそれぞれ中心とする地域と庄内平野を中心とする地域の4地域に大別される。これらの自然地域は近世にはそれぞれ別個の藩領に属するなど歴史的背景が異なり,また行政,経済,交通などの結びつきからもまとまった地域を構成している。

(1)村山地方 県の中東部を占め,最上川中流部に開けた山形盆地を中心に,県都山形市をはじめ天童,上山,寒河江,東根,村山,尾花沢の7市と周辺の7町を含む。県人口の約45%を占め,人口密度も県内で最も高い。また県の行政,経済,文化などすべての機能を集積する山形市を中核とする。周辺の天童市や山辺町は近年人口増加が著しく,山形市の衛星都市化が進んでいる。農村部は稲作と果樹栽培の複合経営が多く,多目的の寒河江ダムの建設や最上川中流農業用水事業などの開発も盛んである。

(2)置賜地方 県の南部を占め,最上川上流部の米沢・長井両盆地と周囲の山地からなり,米沢,長井,南陽の3市と周辺の4町および西部の荒川水系に属する小国町とが含まれる。人口密度は県平均より低い。近世に米沢藩が盆地内に多くの用水堰を造って水田を開き,畑地には桑を植えて養蚕をすすめ,青苧やウルシの栽培を奨励した。明治以降はブドウや西洋ナシ,リンゴなど果樹栽培も導入し,酪農では本県の先進地で米沢牛として知られる和牛飼育も盛んである。奥羽山脈を通る新栗子トンネルが開通してからは高畠町や長井市への弱電部門を中心とした工場の進出が多くみられる。

(3)最上地方 県の北東部を占める。最上川の中・下流部に合流する小国川,指首野(さすの)川,銅山川,鮭川などの支流沿いに開析扇状地,河岸段丘が発達する丘陵性の盆地と周辺の山地からなる。新庄藩の城下町として発達した新庄市と周辺4町3村が含まれる。人口密度は県内で最も低い。積雪の多い寒冷な気候で,暖候季に吹く冷涼なダシ風(東風)や冬の季節風が,最上峡と小国川の横谷を通じて進入しやすい。稲作など農業生産性が低いため過疎化が著しく,出稼ぎが多い。かつて植林と牧馬が盛んであったが,全国一の蓄積量を誇る金山杉はその代表である。製材,木工,家具など資源加工型の工業のほか,近年は弱電関係の工場進出もみられるようになった。

(4)庄内地方 県の北西部,庄内平野を占める。平野のほぼ中央を流れる最上川を挟んで,川北の酒田市と飽海(あくみ)郡の1町,ならびに川南の鶴岡市と東田川郡の2町からなる。鶴岡市は庄内藩の城下町として,酒田市は最上川河口の港町として発達した。いまも両市の商圏などは拮抗し,庄内地方を南北に二分している。庄内平野は古くから用水堰の築造が盛んで,耕地整理が進んだため日本の代表的な水田単作地域となったが,一方では本間家などの大地主の輩出をみた。海岸線を限る庄内砂丘は長さ約35km,幅約2~3kmの大砂丘で,近世以来飛砂防止のためクロマツの砂防林が造成され,砂丘列間ではメロン,スイカ,イチゴなどが栽培されている。
執筆者:



山形[市] (やまがた)

山形県中央東部に位置する県庁所在都市で,県下一の商工業都市でもある。1889年市制。人口25万4244(2010)。山形盆地の南部に位置し,南は上山(かみのやま)市,北は天童市に接し,市域の東部は蔵王山頂を含む奥羽山脈,西は白鷹丘陵の山地である。奥羽山脈から西流する立谷(たちや)川や馬見ヶ崎(まみがさき)川は盆地東半に扇状地を形成し,中央平野部を北流する須川に注ぐ。気候は内陸性で気温の較差は大きいが,積雪量は年平均20~30cmで県内平地では比較的少ない。市街地中心部は馬見ヶ崎川扇状地の扇端湧水帯から扇央にかけて発達した旧城下町で,南北朝期に斯波兼頼が築城,近世初期に最上義光(よしあき)によって城下町として整備された。最上家改易後は領主の交替があいつぎ,藩領も幕末には5万石にまで縮小したので,侍町は衰微したが,町屋は紅花,青苧(あおそ)(カラムシ)などの集散地として市が開かれ,紅花商人が活躍する村山郡内最大の商業地として発展した。藩主の保護奨励によって生まれた鋳物や鍛冶業の伝統産業はいまも特産品として継承されている。第2次大戦後ミシン部品製造が興り,近年は電気機器,精密機械工業なども発展し,県内では米沢市に次ぐ工業出荷額(1995)をあげている。交通の要地でもあり,奥羽本線が南北に走り,仙山線,左沢(あてらざわ)線が分岐する。1992年山形新幹線の東京~山形間が開通。99年新庄まで延長された。国道13号線(羽州街道)を南北軸に,国道112号線(六十里越街道)で鶴岡市と,286号線(笹谷街道)で仙台市と,348号線で長井方面と結ばれる。山形ジャンクションで山形自動車道と東北中央自動車道が交差する。市域には樹氷とスキーで知られる蔵王国定公園の観光基地蔵王温泉や立石(りつしやく)寺(山寺)(名,史)などの観光地があり,古代集落跡の嶋遺跡(史)や明治初年の洋風建築である旧済生館本館(重要文化財)などもあり,8月6~8日の花笠踊や秋の芋煮会が市民に親しまれている。
執筆者:

地名の初出は室町期の1455年(康正1)。北朝方の斯波兼頼が1356年(正平11・延文1)その勢力を拡大するため当地に入部し,羽州探題としてこの地方を支配した。斯波氏はのち最上氏を称し,最上義光は1590年(天正18)以後,山形を拠点に最上・村山地方を統一,1601年(慶長6)には57万石の大名となり,城下町の整備・発展を図った。城地は山形盆地南東部,馬見ヶ崎川の沿岸に位置する。山形城は扇状地の西端にあり,その東部を走る羽州街道に沿って七日町,八日町,十日町,旅籠(はたご)町などの商人町,宿場町が並び,東裏通りと北部に職人町があった。その他,町人町は東方の笹谷街道,北西に向かう六十里越街道に沿って並び,町数は33町といわれた。最上氏時代の侍屋敷は三の丸内のほか町屋の外にも置かれたが,1622年(元和8)の最上氏の改易以後,山形藩は大名の交替が多く,しかも20万石から元禄(1688-1704)ころは10万石となり,幕末の水野氏時代には5万石に縮小した。城郭はそのままであったので郭外の侍屋敷がなくなり,郭内も空地が多くなっている。元禄年間には町数30,町屋敷2507軒,家数2157軒,人口1万3031人,寺数70ヵ寺であった。城下町の石高は2万4000石余。この石高は各町が城下町周辺の村々に所持し,出作りしている田畑の生産高であった。

 山形は村山地方の商業の中心であり,陸上交通の要地であるとともに最上川舟運では船町を外港として栄えた。とくに江戸期の特産物,最上紅花を集荷し,これを上方と取引する紅花商人が発達し,明治以後の商業都市の基礎がつくられた。鍛冶町,銅町も古くから発達し,銅製品は梵鐘のほか出羽三山道者のみやげ品として広く知られ,八日町が道者宿として発達している。町政は各町に1~2名の検断,数名の組頭・小走により,旅籠町には本陣,脇本陣があった。明治初期の町数は31町,1876年に山形県庁のほか諸官庁が置かれ,89年の人口は2万8400人,1908年には4万1101人であった。
執筆者:


山形[村] (やまがた)

長野県中西部,東筑摩郡の村。人口8425(2010)。松本盆地南西部に位置し,西部は飛驒山脈の山地,東部は緩やかに傾斜する開析扇状地である。火山灰土を利用したナガイモ,レタス,アスパラガスなどの野菜栽培を中心にカラマツ苗,花卉類などの畑作が盛ん。明治以降開拓され,田畑の基盤整備,畑地灌漑施設の設置など,早くから農業の近代化が進められた。昭和40年代後半から東接する松本市のベッドタウン化が進み,人口が増加している。清水(きよみず)高原では別荘地の開発が進んでいる。
執筆者:


山形(岩手) (やまがた)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山形」の意味・わかりやすい解説

山形
やまがた

岩手県北東部,久慈市西部の旧村域。久慈川上流域に位置し,平庭岳,明神岳などの山が連なる。地名は江戸期以来の名称にちなむ。 90%以上が山林原野であるため用材や薪炭,牛馬の産地であった。短角牛の繁殖のほかホウレンソウの栽培が行なわれている。久慈川中流部久慈渓流は平庭高原とともに久慈平庭県立自然公園となっている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

普及版 字通 「山形」の読み・字形・画数・意味

【山形】さんけい

山の形。

字通「山」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

岩石学辞典 「山形」の解説

山形

ダート・バンド

出典 朝倉書店岩石学辞典について 情報

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android