掛川城跡(読み)かけがわじようあと

日本歴史地名大系 「掛川城跡」の解説

掛川城跡
かけがわじようあと

[現在地名]掛川市掛川 城内など

掛川盆地の中ほどにある標高五七メートルのしろ(龍頭山・本丸山ともいう)を中心に築かれた平山城。城域は東西約四〇〇メートル・南北六〇〇メートルほどである。往時の掛川城は最高所に位置する天守曲輪(天守丸)と中段の本丸が主郭で、十露盤そろばん堀・三日月みかづき堀・内堀(松尾池)が巡っている。さらに二の丸・三の丸・松尾まつお曲輪を配し、南側を西流するさか川とその支流を水堀として取込み、二重・三重の防御ラインを構築している。懸川城とも記し、雲霧くもきり(遠江古蹟図会)などともいう。

〔築城と戦国期の動き〕

懸川城は今川氏親の重臣朝比奈泰熙によって築かれたが、その前身として、氏親の父義忠が文明五年(一四七三)一一月二四日に懸川庄代官職を与えられ(「足利義政御判御教書写」今川家古文章写)、そののちに築いた原懸川城とよぶべき城があったともいう(静岡県史)。氏親が遠江東部を勢力下に置いた明応五年(一四九六)から翌六年頃に(同書)、遠江経略の拠点として築かせたもので、「宗長日記」には「前備中守泰熙、当国の事承るはじめ、此の山を見たて筑く」とある。築城当初水の手の発見に苦しんだが、逆川の川底と同じレベルまで掘下げてようやく水を得た。永正一四年(一五一七)冬には城内に八幡を勧請し、城主朝比奈泰能(泰熙の子)の叔父朝比奈時茂が守護した。宗長は「八幡の祝の発句」として「是や世にこほ(凍)らぬなかれ(流)しみつ(清水)」を寄せている(同書)。大永二年(一五二二)五月に宗長が訪れたときは外城を普請中で、周り六、七百間に堀を浚い土居を築き上げていた。これが現在の掛川城である。本城との間の堀は嶮々としてのぞくと怖いほどだったといわれ、南側には岸高く水広い池があり、その眺めを宗長は「いけ(池)おも(面)やしきはすみの江はるの海」と詠んでいる。同六年二月にも宗長は「当城数年さまさま普請、堀は幽谷のことく、山は峰の椎樫しけく、よそめもたゝ鷹の巣山ともいふへく」と記しており、城が拡張・整備されていった様子がわかる(以上、同書)

永禄一一年(一五六八)一二月、武田信玄に駿府を追い落された今川氏真が、朝比奈泰能の子泰朝を頼って籠城したことにより、懸川城は歴史の表舞台に押出された(「享禄以来年代記」など)。本拠を失った氏真がなお半年も抵抗を続けられたのは、城構えの堅固さもさることながら、浜名湖方面と連絡をとりつつ徳川家康軍を牽制できるという地の利によるところが大きかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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