日本歴史地名大系 「掛川城跡」の解説
掛川城跡
かけがわじようあと
掛川盆地の中ほどにある標高五七メートルの
〔築城と戦国期の動き〕
懸川城は今川氏親の重臣朝比奈泰熙によって築かれたが、その前身として、氏親の父義忠が文明五年(一四七三)一一月二四日に懸川庄代官職を与えられ(「足利義政御判御教書写」今川家古文章写)、そののちに築いた原懸川城とよぶべき城があったともいう(静岡県史)。氏親が遠江東部を勢力下に置いた明応五年(一四九六)から翌六年頃に(同書)、遠江経略の拠点として築かせたもので、「宗長日記」には「前備中守泰熙、当国の事承るはじめ、此の山を見たて筑く」とある。築城当初水の手の発見に苦しんだが、逆川の川底と同じレベルまで掘下げてようやく水を得た。永正一四年(一五一七)冬には城内に八幡を勧請し、城主朝比奈泰能(泰熙の子)の叔父朝比奈時茂が守護した。宗長は「八幡の祝の発句」として「是や世に
永禄一一年(一五六八)一二月、武田信玄に駿府を追い落された今川氏真が、朝比奈泰能の子泰朝を頼って籠城したことにより、懸川城は歴史の表舞台に押出された(「享禄以来年代記」など)。本拠を失った氏真がなお半年も抵抗を続けられたのは、城構えの堅固さもさることながら、浜名湖方面と連絡をとりつつ徳川家康軍を牽制できるという地の利によるところが大きかった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報